また、同町で組織されている14分団41部総勢580人からなる消防団の活動でも改革は行われた。
07年以降の訓練では、避難を呼びかける消防団員も津波到達予定時刻の10分前には高台に避難することが定められた。庭野さんは「海岸近くで消防団の車両が赤色灯を付けてとどまっていたら住民はまだ大丈夫だと思ってしまう」とその理由を説明する。08年には津波襲来が予想される際、沿岸に接続する町道6か所で消防団が通行規制も行うことになった。
さらに2010年にも新たな取り組みが決定した。同年2月、南米チリ沿岸でマグニチュード8.8の地震が発生し、青森県太平洋沿岸、岩手県、宮城県に大津波警報が発令された「幻のチリ地震津波」。気象庁は予測が過大だったとして後に謝罪している。
だが、これを機に洋野町では、町内の河川から海に通じる合計26か所の水門のうち必要度の低い11か所を閉鎖。常時開けている水門を15か所に減らした。
そのうち、久慈消防署種市分署から遠隔操作ができる大規模水門3か所以外の、12か所の水門を消防団が緊急時に閉鎖すると決定し、各消防分団が担当する水門閉鎖は1か所ずつとした。消防団員が複数の水門閉鎖を担当することで、逃げ遅れないようにするためだった。
生死を分けた迅速な避難活動
そして、あの2011年3月11日を迎えた。
前述の蔵さんが八木北港から海抜約27メートルの高台にある自宅へ到着した頃には、地区の緊急一時避難所本部と定められていた蔵さん宅に隣接するスーパーの駐車場に、防災組織役員による本部テントが設営中で、そこに続々と住民が避難してきていた。
消防団では、稼働できた者の多くが10分以内に屯所に集合。消防団が閉鎖するべき水門は発災12分で全て閉鎖し、町道の通行規制も完了した。沿岸地区で一通り避難を呼びかけた団員はその後、高台に避難した。
消防団の活動が一通り済んだ頃には、八木北地区の緊急一時避難所本部では、住民による炊き出しのための調理がすでに始まっていたという手際の良さだ。
当時種市分署長だった庭野さんは、津波到達時に分署内に設置されていたモニターで、遠隔操作水門に設置された監視カメラから津波の海水がしたたり落ちる様子を眺めていた。その直後から分署には続々と被害状況が入ってきたが、最終的に懸念した死者・行方不明者の報告はなかった。
洋野町では昨年12月、八木地区に総延長約420メートル、高さ海抜12メートルの防潮堤が完成した。これ自体は大きな前進である。しかし、洋野町の経験は、官民一体となったソフト整備がいかに効果的であるかを如実に教えてくれる。防潮堤というハードの整備はそれを補強するものに過ぎないのだ。