「グレイテスト・ショーマン」の主人公は、19世紀の伝説の興行師P・T・バーナムがモデルだ。物語は、仕立屋の息子である主人公P・T・バーナムことフィニアス・テイラー・バーナム(ヒュー・ジャックマン)が、富豪の娘であるチャリティ(ミシェル・ウィリアムズ)を見初めるところから始まる。
ふたりはチャリティの両親の反対を押し切って結婚するが、フィニアスは船会社をクビになり、一計を案じ、銀行からカネを借り、博物館を始める。ところが博物館は一向に客が入らず、フィニアスはこの建物で、世間から見捨てられていた人たちに声をかけ集めて、彼らの特徴を生かした新しいショーを始めるのだった。導入は恋愛物語だが、途中からは、まさに「グレイテスト・ショー」を見せるミュージカル作品となっていく。
作品を観た方ならわかると思うが(予告編や宣伝物では注意深くそのことは伏せられている)、ヒュー・ジャックマン演じる主人公が始めるのは、フリークスたちを集めたサーカス興行である。それは、髭の生えた女性あり、背の低い人間あり、他にも巨人や全身刺青の男性など、いわゆるマイノリティに属する人たちによって演じられるショーだ。
現実のバーナムは、かなり毀誉褒貶(きよほうへん)の激しかった人物で、詐欺師とも、法螺吹きとも言われたが、作品のなかでは、それらのマイナス要素は見事にロンダリングされ、世間から見捨てられていた人たちに活躍の場を与えるかなりボジティブな人間として描かれている。
たぶん、実際のバーナムは、彼らを見世物として扱い、興行を成功させたのだろうが、映画「グレイテスト・ショーマン」では、豪華なステージを設定して、素晴らしい音楽と躍動するダンスで、マイノリティの人たちに華やかな活躍の場を与える演出がされている。とくにサーカスの全員が揃う場面で、レディ・ルッツ役のキアラ・セトルによって歌われる「This is Me」は、詞といい曲といい、とにかくなかなかの感動を呼び起こす楽曲だ。
また実在の人物ではなく、この物語のために設定された役柄らしいが、バーナムのパートナーであるフイリツプ・カーライル(ザック・エフロン)が恋に落ちるアフリカ系アメリカ人のブランコ乗りの女性アン・ウィーラー(センデイヤ)との、ロープを巧みに使った愛の交歓場面は、このミュージカル映画の白眉といってもよい。
確かに、マイノリティの人たちに対する描き方や、主人公が一度は彼らを見捨てるシーンなどに、異を唱える声も聞く。あまりに美談として描かれすぎているという厳しい意見もある。ただ、ミュージカル映画という枠組みのなかに、マイノリティに対する問題を盛り込んだという製作者側の意図は評価したい。
「レ・ミゼラブル」(2012年)以来のミュージカル作品となるヒュー・ジャックマンにとっては、この間ずっとこだわってきたのがこの「グレイテスト・ショーマン」という作品だというが、トランプ大統領の誕生以来、アメリカのマイノリティーたちに危機意識がもたらされているときに、このような作品を世に問うてきたのは、実に時宜を得たことと言えなくもない。
「グレイテスト・ショーマン」という作品は、ダイバーシティへの賛歌ととらえられる。さまざまなサーカスの人間たちが歌い踊るシーンは、まさにそのような意図で演出されている。
「ラ・ラ・ランド」がアメリカンドリームの光と影を描いていたなら、これはダイバーシティーによるアメリカンドリームの実現と考えてもよいのではないか。そして、「グレイテスト・ショーマン」とは、まさにそれを演出する人。アメリカの社会でその立場にいる「グレイテスト」はひとりしかいない。
その人物がこの作品を観たかどうかは知る由もないが、「グレイテスト・ショーマン」をそのようにこじつけて見るのも愉快なことだ。マイノリティの人たちに対するダイバーシティを意識したポジティブな姿勢、これがいまの指導者にも求められていると勝手に解釈した。いささかオプチミスティックな考え方かもしれないが、そういう見方がたやすく許されるのが、ミュージカル映画の特権でもある。
映画と小説の間を往還する編集者による「シネマ未来鏡」
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