「東洋的発想」がいずれ世界を席巻すると断言する落合が、話題の未邦訳本から読み解く“日本の勝ち筋”とは?(前編はこちら)
西洋的な個人は、普遍的なソリューションではない
なぜ現代社会を生きる我々は、西洋的個人に対する“獲得意識”とともに物事を発想するのでしょうか。世界史の授業で扱うからでしょうか? 社会制度が今それを是としているからでしょうか。しかしながら、あらゆる時代背景にとって常に最適なものがないように、僕は「“西洋的な個人”こそが、我々が歴史の中で獲得しえた最適かつ普遍的なソリューションである」といった思い込みにその元凶があるのではないかと思っています。「個人主義はナイーブな概念だった」──。やがてテクノロジーの更新とともに我々人類が自らその更新を認められればいいのですが、それはなかなか難しいかもしれません。
西洋では「個人」を軸に据え、人権に代表される制度や仕組みを構築してきました。それでも、考え方としての個人はここ300年程度しか使われていない概念です。
歴史に根ざした議論を進めるのであれば、「個人」を排して考えた方がより自然といえます。西洋人は自然契約に基づき、個人が生まれたと考えているかもしれませんが、あくまでも現代的な個人が生じたのは宗教以後です。宗教以前の個人を振り返るには紀元前の議論に戻る必要があり、例えば、ギリシャ的民主主義は必ずしも個人の権利意識から生じたものではないでしょう。議論や仕組みの中で生まれた、その時代に適する制度ということです。
これは、日本でも同様に、古事記(712年)と日本書紀(720年)を編纂するため、国教としての神道ができるまで「個人」といった考え方はおそらく薄かったのではないかと僕は考えています。個人の私的所有権を認める墾田永年私財法が発布されたのは743年。裏返せば、それ以前は私的所有による土地制度が存在しなかった。神話(宗教)と同時に所有を、そして個人としての意識を生み出してきたのです。『サピエンス全史』から『Homo Deus』までハラリの論からはこうした東洋的視点が抜け落ちています。
東洋的なソリューションとして、僕がオススメしたいのは道教の始祖の一人とされる荘子が代表的な説話「胡蝶の夢」でいった「物化」(英語では“transformation of material things”)です。
この言葉は「あらゆるものが事物や概念が変換されること」を意味します。荘子は蝶々になるし、蝶々は荘子になる。一は全になり、全は一になる。西洋世界は、「神」と「世界」と「私」を単一のものとして捉えるのに対し、荘子は「あらゆるものが、あらゆる次元でトランスフォーメーション可能なのだ」と説くのです。