欧米で既に議論を呼んでいる本書を、落合陽一が邦訳に先立って徹底批評。「東洋的発想」がいずれ世界を席巻すると断言する落合が、話題の未邦訳本から読み解く“日本の勝ち筋”とは?(後編は3月4日公開)
はじめに断っておくと、僕は歴史家であるユヴァル・ハラリという著者が好きです。前著「サピエンス全史」は一気に楽しく通読しましたし、その続編で歴史から未来へとベクトルを急転換させた「Homo Deus」の刊行も楽しみで仕方ありませんでした。
読み終えた率直な感想は、「西洋的個人主義の更新の必要性を感じる一冊」というものです。批評性を持って読むと我々と西洋的個人主義の差を認識することのできる良著です。
「Homo Deus」の大筋は下記のような内容になっています。
飢饉・疫病・戦争を克服したあと、人類に残る課題とはなにか。ハラリは大きく「不死の獲得」と「幸福の再定義」をアジェンダに設定します。
永続的な幸福を得るためには、人間のリエンジニアリングが必要になる。そして、人間性がハックされれば、権力は個人主義からネットワーク化されたアルゴリズムへ移行していく。バイオテクノロジーとコンピューター・アルゴリズムによって、私たちはより力強い虚構や完全な宗教を創造する。不死と幸福の獲得により、ホモ・サピエンス(ヒト)はホモ・デウス(神)へ変身していく。
「個人主義からネットワーク化されたアルゴリズムへの移行」──。ハラリが思い描く未来の方向には、おおよそ同意します。人類とテクノロジーの関係を考察すれば、そうした方向に向かうのは当然ともいえるかもしれません。
「人間性をハックせよ」や「私たちは発達したチンパンジーから、大きくなった蟻になるかもしれない」といったハラリの主張は、僕が口癖で普段からツイッターでいうような「人間性を捧げよ」や「インターネット蟻」とほぼ同じことを言っているのです。
同じ未来像を共有しているにもかかわらず、僕と彼の思想はその結論で決定的に異なります。前著「サピエンス全史」を継承する形で、ハラリは大多数の集合的な協働能力が人類と他の生物を分かつと主張しています。
だとすれば、ネットワーク化されたアルゴリズムが僕らの認知的な限界を突破したとき、導かれるべきは「ネイチャー(僕はよく“計算機自然”と表現します)になるはずでしょう。それにもかかわらず、ハラリが結論として導出するのは「超人(Homo Deus=神の人)」なのです。
このズレに気づいたとき、「あ、この感覚の差は思ったより大きいし、これから東洋的感覚を持ち合わせたアジア諸国の行く末は明るい」と改めて思いました。今回の記事では、「Homo Deus」で展開するハラリの主張をたどりながら、なぜ僕が日本の未来に希望を見出したのかを詳述していきます。
キーワードとなるのは、ずばり「東洋」です。