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ㅤ鎌倉市在住のフリーランスライター兼編集者

磯貝匡志 ミサワホーム代表取締役 社長執行役員

「我々は、“プレモスの子孫”なんです」

磯貝匡志が戦後の「日本の家」について話をしているとき、彼の口から出た一言──プレモスの子孫。この言葉が意味するものを繙いていくと、ミサワホームの住まいづくりに受け継がれてきた思想が見えてくる。

話は終戦翌年にさかのぼる。建築家ル・コルビュジエの愛弟子だった前川國男が、当時の「420万戸不足」という極度の住宅難を解決すべく、プレハブ住宅を設計した。後年、東京都美術館や国立国会図書館新館などを手がける名建築家である。プレハブとは「Prefabrication(あらかじめ製作する)」の略で、前川が1000棟建てたそのプレハブ住宅の名が「プレモス」だった。

磯貝が共鳴するように説明する。

「前川さんは『家を焼け出された人、大陸から引き揚げてきた人に住宅を供給しなければいけない。それこそが日本の建築家の使命である』という強い思いを持っていたんです」

事実、前川は当時こんな言葉を残している。「敗戦の日本には資材も金も足りないことはわかりきっている。それだからといって壕舎生活や同居生活や身動きならぬ6坪住宅でどうして我々は一人前の生産ができようか? どうして日本の再建ができようか? 普通の住宅6坪を建てる資材で10坪建てる方法はないか?」

これがプレハブ技術に発展していくのだが、課題を解決するキーワードとして磯貝が挙げるのが、「創意工夫への知恵」だ。

「戦後の焼け野原に残っていたのは、木工機械と木材、それに人でした。前川さんは残ったものを組みあわせて経済を再興することを目指した。そこに日本のものづくりの知恵が存在したというわけです」

今年10月、ミサワホームは設立50周年を迎えた。節目の年に社長に就任した磯貝が「例えばこの建物」と切り出す。東京・浜田山の住宅展示場に建つモデルハウスのことだ。

「ミサワ50周年を記念して発売した、“南極仕様の家”なんですよ」

ミサワホームは1967年の会社設立と同時に、南極昭和基地の第9居住棟とヘリコプター格納庫の部材を特命で製作している。極寒の地で越冬できること、施工が容易なこと、輸送の問題から部材の大きさ・重さに制限があることなど、建物への要求は極めて厳しかった。

だが、高度に工業化された木質パネル接着工法によるミサワホームの建物は、建築経験のない隊員でも短期間で施工でき、厳冬期の最低気温ー45℃超、風速最大60m/秒のブリザードも珍しくないという過酷な自然環境にも耐えうる性能を有し、事前の条件をクリアした。

文=堀 香織 写真=アーウィン・ウォン

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