著者の仲野徹は、大阪大学大学院・医学系研究科教授で、分子生物学者だ。職業的プロフィールをみるとなにやらものすごいエリートのようだが、実際に酒席をともにすると、爆笑エピソードを次々披露して座を盛り上げっぱなしの大阪のオモロイおっちゃんである。
帯に「ボケとツッコミで学ぶ病気のしくみ」とあるように、本書自体が仲野の宴席トークを彷彿とさせるような肩の凝らない文章で綴られているから、身構えて読む必要はまったくない。ただただ仲野の雑談芸を楽しめばよいのである。
本書で展開される仲野の雑談はこんな具合だ。
たとえば細胞の損傷について説明をはじめたかと思ったら、話題はフランス革命の際に使われたギロチンで首を落とされたら、果たして意識はどれくらい保つかという方向へ流れ、そこから江戸時代の切腹マニュアル『自刃録』に記された「首の皮一枚を残して切る」という介錯のコツについて話が及び、最後は細胞における「帰還不能臨界点」についての説明がなされる。
「これ以上行ったらもう戻れない」という帰還不能臨界点よりも手前までのレベルの損傷は「可逆的」な損傷と呼ばれ、それを超えるような損傷は「不可逆的」な損傷と呼ばれる。ただどこが細胞にとっての帰還不能臨界点になるかはまだわかっていない。
仲野は、どれだけアルコールを飲んだら帰還不能になるかとても知りたいが自分ではわからない、本当に知りたいことというのはなかなかわからないと嘆きながら、可逆的な細胞損傷の一例として脂肪肝をあげ、自分もダイエットで脂肪肝を治すことができたと胸を張るのである。読みながらそこかしこでクスリとさせられる。
今西錦司や河合隼雄のように、上方には学問を一般にもわかりやすく語る芸をもった学者の系譜があるが、仲野も間違いなくそのひとりだ。本書は前半で「細胞」と「血液」について学んだ後、後半では現代を代表する病である「がん」について詳しく、かつ楽しみながら学べるようになっている。
がんに罹患した著名人が代替療法を選択したなどというニュースをしばしば目にするが、本書をここまで読み通していれば、もし自分がそうなってしまった場合のスタンスをどうするか、ある程度はイメージできるようになっているはずだ。つまり現在の研究でいま判明しているのがどこまでで、どこからが非科学的な領域に属するのかということを大づかみできるようになるのである。
このことはとても重要だ。現代の医療はすさまじいスピードで進化している。
それこそ仲野である専門の分子生物学の発展などによって、生命科学の分野では日々新たな発見がもたらされている。新しい治療法や薬が次々に開発される一方で、われわれ患者は相変わらず情報弱者の地位に捨て置かれたままだ。
本書が与えてくれるのは、「せめてこの程度のことは知っといたほうがええよ」という情報だ。専門家からすればそれは最低限の知識かもしれないが、仲野が教えてくれる「ことわり」は、「ここさえ押さえとけば安心やで」というキモの部分である。これを知っているのと知らないのとでは、医師の話を聞く際の心構えからして違ってくるはずだ。
どうしてこんな本がいままでなかったのだろう。本書を読み終え病床で冷静さを取り戻すことができた今、心からそう思う。
ひとまず「溶けて」「壊死」したぼくのすい臓は、まだ帰還可能地点にいるらしい。本書を手にホッと安堵のため息が出た。
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