話はずれるが、静岡・裾野にファッションの撮影でお邪魔するスタジオがある。写真スタジオらしいオシャレな造りの建物の前には庭があり、白樺や花、苔が綺麗な石の一部に輝いている。ところが、このスタジオはいつ、どの季節に行っても、そして、何年か後に行っても、同じ景色の庭なのである。
普通の園芸は成長を楽しむが、ここでは勝手に成長させるのではなく、いつ撮影があってもベストな状態になるように手入れしてある。苔が増えすぎないように、樹木が伸びすぎないように、剪定して同じような美しい景色をつくる。そこに時間もお金もかかると聞いて驚いた。京都の禅寺の庭さながらである。
ところで、ヘアカットがビジネスとしてAIに対抗できるのはなんとなく理解できるが、頭髪自体がいるのかというシンプルな疑問がある。
なぜ、ヘアスタイルが重要なのか。漁師には漁師らしく、税理士には税理士らしい髪型があり、ファッションデザイナーはこれまたそれらしい髪型をしているなのはなぜなのか。人が頭髪へ特別な想いを抱くのはなぜなのか、そこまで考えてカットしている美容師は少ないので、セミナーなどではこの話もするようにしている。
ここで疑問を解くカギとなる話をひとつ。友人の本多達也が、オンテナ(http://ontenna.jp/)というものを開発した。聴覚障がい者が音の微細な違いも感受できるようにする骨伝導型のセンサーだ。考え方も素晴らしく、デザインも秀逸。そしてこれは、耳につけるのではなく、髪の毛にヘアアクセサリーのようにつける。ここに大きなヒントがある。
頭髪は自己表現の場であり、頭皮を守り安心感をくれる保護材料の意味もあるが、人間にとってはそれと同時に、周りのことを敏感に感じ取る高感度センサーでもあるのだ。
哺乳類である人類は、他の哺乳類のように体毛やヒゲで周りの状況を確認し危険を察知して生活していた。その名残が頭髪であり、いまも髪の毛で感じる感覚には心理的な影響力がある。髪の毛は死んだ細胞だと言う人もいるが、実際は数多くの情報を教えてくれるセンサーであり、いわばAIでは辿り着けない感覚のセンサーなのである。
風や振動を感じるのは頭髪であり、体毛である。風に向かって走るジョギングや、自転車、バイク、オープンカーを心地よく感じるのもそのためだ。宮崎駿監督の映画も「風」が重要な役割を担っている。
雨の日に髪の毛が重く、ぐちゃぐちゃで気分が悪いなんて経験はよく耳にするが、これは髪の毛が湿度のセンサーになっていて感情と直結しているから起こる現象ではないのか。または、女子の髪の毛が絡まってぐちゃぐちゃになっているとする。本人はもちろん気分が悪いだろうし、その髪に触れる親や彼氏も気になるのだ。センサーがうまく作動できていないからだ。
逆に髪の毛が落ちてご飯に入る、床に散らかるようなことは、ものすごく忌み嫌われる。もてはやされた髪は、一瞬にして悪者になる。その落ちた髪の毛は、もしかしたら麗しい女性の洗ったばかりの清潔な髪の毛かもしれない。それでもご飯に一本のっている絵は、気分を落としてしまう。スーパーで買った食材にビニールの一部が入っていても、その部分だけ避けて食べるられるのに、その違いはなんだろう。
髪の毛が一本入っていると、お椀の中身を全部替えたくなる心理が働く人は多い。やはり髪の毛の存在が大きく、センサーとしていつも綺麗に整っているのがデフォルトであり、それが人類の感覚だとすでに認識しているのではないか。髪の毛は精度の高いアンテナとして頭のてっぺんに大切に付随している機能部品であり、動物的感覚を原点とするセンサー本来の姿ほかならないと人間が知っているのではないだろうか。
その昔のCMに「髪の毛は、ながーい友達」というのがあった記憶がある。「髪」という字を分解したいいコピーだった。髪の毛は高度のセンサーかつ、人間が機械でなく生命である要素を十分に体現している部分であり、一生大事にしたい人間のパートナーなのである。
綺麗でなくては機能しないし、整理されていないと本領発揮できない。AI台頭で高度にIT化する世の中では、髪の毛が表現として重要でありながら、人間が生命体であり動物である意味をより深め、生きている意味を教えてくれる存在なのである。
流行やスタイルは別として、髪の毛が整っている人は「ああ、この人はセンサーがよく手入れさているな。できるな」って気がするのは美容業ならではの反応なのだろうか。