「書くこと」と「時間」は、昔から深いつながりをもっていた。
1,200年も前の中世ヨーロッパの修道院で、スピードをもって聖書を写し書きするアートが生み出された。
今日「世界で最も美しい本」といわれる聖書写本『ケルズの書』(800年頃、アイルランド、ケルズ修道院で完成)の装飾文字のデザインがそれである。
古代ローマでは堂々たる大文字書体が書かれ彫られていた。が、それは正方形や正円の内側にきっちりと収まる四角四面で、もったいぶった堅い表情の書体。素早く写字するには適していなかった。
ところがキリスト教がヨーロッパに広まりラテン語の聖書の写本がつぎつぎに制作されねばならなくなったとき、ローマ字体に取ってかわる、新鮮味ある書字のスタイルが現れたのだ。
それはハーフ・アンシャル体(1インチの半分の意)である。ローマ字体に比べると一目瞭然の可愛らしい小文字体に特徴があり、アルファベットのストロークは鋭くて柔らか。丸みを帯び、連なると渦巻く流れのようになる。
写字をする修道士たちは、一生を捧げ、鳥の羽根の鵞ペンで、かなりの速度で、羊皮紙や子牛皮紙に、聖書のテキストを埋めていったのだった。
出来上がった聖書写本、とくに『福音書』は伝道のために最重要。ケルト・キリスト教の伝道師たちは小さなポシェットにそれを忍ばせ、まだ異教徒のいるヨーロッパ大陸の北辺や東端にまでミッションに出かけていった。
「世界で最も美しい本」といわれるアイルランドの至宝『ケルズの書』はこのハーフ・アンシャル体が、ヨーロッパの写本芸術のなかでも、最も神秘的で複雑に絡まり合うアルファベットのレタリングとなって伝わっている。
そしてこの書体は1,200年後の世界のアイリッシュ・パブの看板や、ケルト音楽のCDジャケットの文字デザインとしてよみがえった。書体だけでどの国の文化かが一目でわかるのである。
このようにハーフ・アンシャル体はケルト修道院がヨーロッパ大陸に果敢に伝道した黄金時代の精華として、ヨーロッパのレタリングやタイポグラフィーのデザイン史を彩ってきた。
そしてこの書体が時間との闘いのなかで生まれた美しい速度ある文字、だとすれば、その美や用途にいちばん共感できる国民は我々かもしれない。
日本文化は漢字を受容し、やがてそこから「かな文字」を発明して、さらさらと流れ、形をくずしても書けて読める魔法の書体をいまも用いている。「安」と「あ」、「以」と「い」、「宇」と「う」の違いである。重さとは逆の軽みを湛えて速やか。流れるように先へ進む。
そう、そこには漢文化と日本文化の時間観の違いが浮かび上がってくる。真名(漢字)にたいする仮名(かな)は、あらゆるものを片時も留まらせずに、速やかに「時間」をサーフしてゆく。「ゆく河の流れは絶えずして」のイメージそのものを書体に託し、すべてのものは常に変化していくという無常観と自然観を示しているとも思える。