また、存在感をもつ民間企業がいくつもあり、それらを顧客とするIT企業の勢いがランゲの実際の風景に表れている。それが「一度出て行った若手が戻ってくる」という展開を促し、このような企業の財団がテリトーリオの医療や生活の質の向上に尽くしている。
あっちには不足があるけれど、こっちで穴埋めができる、という可能性を人々に感じさせてくれるわけです。
自分なりの「全体」を会得する
グフラムの工場で手作業する人たちは、最先端の設備機械や道具に囲まれています。最新の機械で工場が管理されており、道具で手作業するのです。参加者たちも実際に手作業を経験して「そうなのか!」とハッとします。クラフトの肝は道具よりも人の手にあることを実感することで、クラフトのあり方がひとつかみにわかったのです。このようにテリトーリオ全体の状況を知ることで、今、自分が見ているのは部分であることが身体的に分かってくるのです。
当然、ビジネスと人の生活に距離があり過ぎれば全体は崩れていく。だから全体に拘わることが大事で、その全体が自分なりにつかめれば「とりあえず一歩前に進もう」という確信がもて、あまり怖くなくなるのですね。逆にいえば、誰でも神のように全部を知っているわけではないと認識できれば、主観的に掴む全体に躊躇がなくなります。
そこでビアモンティさんがひとつの話をします。全体に関する理解の参考になるのが古代ギリシャの哲学者・プラトンが提示したイデアではないか、と。イデアは考えの総体ともいうべきもので、現実のすべてを反映したものではない。理念に近い存在です。このような見方があることで、自分の目に見えるだけの世界への不足感が減じていきます。イデアをあまりに積極的に扱いすぎると抽象的な理念が暴走してしまうことがありますが、生きる術として使い勝手が良いのでは、というわけです。
来年5月後半、今度は正式版プログラムを実行する予定ですが、そう決定するに十分な確信をこのように得られる実験でした。