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2024.11.14 15:30

「未来への予見」が利益の源泉─ダイフクのサステナビリティと技術革新

下代 博|ダイフク代表取締役社長

──ダイフクは70年前後から、時代に先駆けて「無人への挑戦」を掲げていた。
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下代:トヨタ自動車さんが59年に元町に建てた日本初の乗用車専門工場にチェーンコンベヤを納入したのも、66年に松下電器産業(現・パナソニック)さんの門真本社(当時)に日本初の自動倉庫を納入したのも実はダイフクだ。

70年代には「日本にはいずれ究極の人手不足時代が訪れる。マテハンがすべての産業を助ける時代が来る」と当時の経営陣は予見していた。私が入社したのは83年だが、会社訪問のときに聞いた、当社が目指すビジョンの大きさと明瞭さに引かれて入社を決めた。当時も社内は「夢をもって新しいことに取り組もう」という空気で満ちていて、面白い技術や製品が次々と生まれていた。

とはいえ、私が入社した当初は、プレス機や工作機械など、モノをつくり、お金を生み出すものが機械だという考え方が世の常識だった。しかし、2010年代から物流コストの上昇が意識され、工場や配送センターの自動化が利益の源泉になると認識され始めてから投資家からの視線が変わった。当社の事業が時代にマッチしていると認められたのだろう。正直、「ようやくわかってもらえた」という思いだった。
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──「夢を持って取り組む」社風は顕在か。

下代:新しいことをやろうという熱は今も続いている。24年に発表した長期ビジョンでは、事業戦略として完全無人化ソリューションの提供を掲げた。人手不足は深刻な状況だ。30年までに完全自動化を成し遂げたい。

モノをつなぎ、社員の心をつなぐ

──社長就任から6年が経過した。下代社長の仕事の原点は。

下代:入社してすぐに機器営業に配属されて、新潟に転勤した。そこで3年間、代理店や販売店の方々と付き合いながら営業活動をした。営業といっても所長を入れて2、3人の部署で、何でも自分でやらなくてはいけなかった。図面も自分で描いたし、現場に入って据付工事を手伝うこともあった。なんでもほぼ100%、自分でやっていた。営業、エンジニアリング、設計、工事。あらゆる立場の人たちがどんな気持ちで仕事に向き合っているのか、よくわかった。新潟での経験が、その後の私の仕事にとても役立った。

転機となったのは、30代後半で流通業向けのマテハンシステムの営業担当になったことだ。折しも世界的に有名な米国スポーツブランドが日本に進出し、千葉の成田に東洋一の物流センターを建てることになった。このとき担当したのが私だった。その実績が、その後の小売りやスーパー、通販など、流通業界での当社システムの採用につながった。

我々はモノを生産する機械はつくっていないが、生産設備の間を自動でつなぐことができる。当社のマテハンシステムは、人体に例えると、心臓や肝臓など大切な臓器をつなぐ血管だ。全体がうまく機能するようにするのがダイフクの役目だ。そして、それぞれの職場で活躍する社員たちの間をつなぎながら皆で協力し合って価値創造できる環境を整えるのが、社長である私の役割だと考えている。


ダイフク◎1937年設立の、物流システム・マテリアルハンドリングシステムの世界トップメーカー。24年3月1日時点で24の国や地域に拠点を構え、海外売上比率が67%以上を占める。

下代 博◎同志社大学経済学部を卒業後、大福機工(現・ダイフク)に入社。一般製造業・流通業向けシステムの営業部門を担当し、2015年6月取締役常務執行役員、FA&DA(現イントラロジスティクス)事業部門長。18年4月から現職。

文=瀬戸久美子 写真=ヤン・ブース

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