「お菓子屋なら、経営よりもお菓子のことを知らないと。でも、実家で修行すると甘えてしまう」。山本氏は、食の人間国宝に認定された先生につきました。
お菓子はプロが触るもの。素人の山本氏は触ることを許されず、卓球の球を使って饅頭を包む練習を重ねました。ピンポン球のブランドロゴマークを上にして、ずっと片手で回します。マークが違う方向にいくと、饅頭が綺麗に包めません。「ずっと回していろ、暇があったら持っとけ」と言われ、ずっと持っていたそうです。
そうして修行した山本氏は、形の悪いものはすぐにゴミ、という姿勢に疑問を呈します。「もったいない」というのもあるが、「形の悪いものを作った自分が悪い。100個作ったら100個きれいに作るのがプロ、という話を先生によくされた。そこが大きな学びになりました」と振り返ります。
「たねやを継ぐ」ことは周囲から
1990年、山本氏は21歳で「たねや」に職人として入社しました。並行して修行も続け、「たねや」と往復する生活を続けました。山本氏は、菓子職人としての腕も確かです。4年に1度開かれる「全国和菓子大博覧会」で、最高賞の「名誉総裁工芸文化賞」を当時史上最年少の24歳で受賞しています。
優秀な職人として「たねや」で働いていた山本氏ですが、周囲の菓子作りの先生たちから、いずれ事業承継することは告げられていました。一方で、父・徳次氏からは事業承継のことは一度も言われなかったといいます。
「父が上手だったのは、自分から言わずに、第三者から言わせていたこと。ブレーンの先生方や近所の人からも言われ、結構効き目があった」。父親に直接言われたら反発し、対立するだけだったと語ります。
実は、事業承継につながっていた
入社6、7年後、山本氏は職人から経営に入っていきます。「販売促進室」に異動になり、SP室室長という肩書きになりました。そこで、父・徳次氏から新たな任務を告げられます。「お菓子の賞で一番星をとったんやから、今度は一番売れてへん店を全国からお客さんが来てもらえるような店にせえ」。
近江八幡市の東隣、八日市市の小さい店をまかされ、店の上階に住まわせられました。販売促進や接客などで店の改革を進め、売上げを伸ばすと、様々な取材が来るようになりましたが、徳次氏は「社長でもないから出るなと」と昌仁氏を表には出しませんでした。
また、徳次氏は「自分の右腕になるやつを10人育てろ」と告げました。山本氏は、スタッフの実力を伸ばしながら、着実に10人の右腕を見つけていきました。
父・徳次氏の真意は、山本氏に「たねや」を受け継いでもらうことにありました。
まず、職人として菓子作りの現場が分かっていないといけない。次に、職人の手がけた菓子を、どうやって世に広く売るか。そして、経営者になるために優秀な腹心を育てるか。山本氏への指示は、事業を承継するためのロードマップだったのです。
バームクーヘン、空前のヒットに
そして、山本氏は30代前半で「クラブハリエ」の社長に就任します。「たねやの方に入ると親子げんかになると思った父親の戦略ですね。クラブハリエだったら失敗してもさほど影響ないと思ったんでしょう」と笑って振り返ります。
弟の隆夫氏(現クラブハリエ社長)も、クラブハリエで洋菓子職人として修行しており、兄弟で大阪梅田の阪神百貨店への出店を計画します。
当時、バームクーヘンはまだ百貨店向きではないと見なされていたが、昌仁氏は弟と共に交渉し、丸々1本の商品を展示したりするなど、自由な形での出店を許されました。そのバームクーヘンは、空前の大ヒットとなっていきます。