2000人のスタッフを抱える「たねや」で、昔のように口伝では経営者の哲学を理解してもらうのは困難です。バイブルは、全社員が所持しており、今の「たねや」の軸をささえる大きな役割を果たしています。
バイブルの中でも、山本氏が大事にしているフレーズが「私は生き生きする前進の心を持っていただろうか」です。
出来事はその日のうちに振り返って反省し、翌朝に新たなスタートを切る気持ちを持つこと。失敗を引きずり続けると自信を失ってしまうので、失敗は新たな目標を掲げるチャンスであり、再び挑戦することが大切、という意味です。
近江商人に通じる、たねやの三本柱
「天平道」「黄熟行」「商魂」が「たねや」が大事にする3本柱だと、山本氏は語ります。天平道は、「商売はいかに儲けるか」ではなく、「いかにお客様に喜んでもらえるか、世のためになるか」ということです。「三方良し」の近江商人の哲学にも通じます。
黄熟行は、手塩にかけて育てることです。菓子の原料となる旬の果実が色づき熟れる様を元にした言葉で、自然から学びながら丁寧に育てるという意味です。
商魂は、利潤を求めることではなく、「天平道」「黄熟行」の魂を込めて客に接する心構えという意味です。
「人の道に外れた商いをしていては、いつかは破滅する」と強調する山本氏は、商売人のお手本のようですが、少年時代は「たねやのバカボン(バカのボンボン)」とあだ名される「悪ガキ」でした。
ボンボンと呼ばれることへの葛藤
「まあ、悪ガキでしたよ。勉強もろくにせずにね」。少年時代の山本氏は、弟の隆夫氏(現クラブハリエ社長)と2人で、バカボン1号と2号と呼ばれ、「たねやも、この代で終わりだ」と言われるほどでした。「たねやのボンボン」と呼ばれることに戸惑い、「なめられている」と勘違いして悪いことばかりしていたといいます。目立ちたがり屋で「山本昌仁ここにあり」と振る舞い、商家の連なる近江八幡市街を屋根から屋根へ飛び移り、走り回るようなこともあったといいます。
しかし、山本氏は、幼い頃からお菓子屋に興味を持っていました。それは、親を見ていると、大変さを感じながらも、楽しそうに仕事をしている姿があったからだといいます。
父の背中「ホンマに熱い人やなあ」
山本氏の父・徳次氏は、どんなことも自分でこなす人でした。当時、スタッフ数も少なかったため、1から10まで自分で手掛け、少しずつ組織を築いていきました。山本氏が小学校6年生の時、徳次氏は東京進出を仕掛けます。当時、滋賀県の企業は、京都や大阪で実績を残し、東京に進出するのが一般的でした。しかし、徳次氏は「確固たる名を残すには東京」と考え、東京の日本橋三越に進出します。
「お菓子には季節があるんや」。当時の百貨店は、季節に関係なく、いつでも柏餅や桜餅が売られていました。「たねや」は、かしわ餅を売る日、桜餅を売る日、水羊羹を売る日と季節感を全面に押し出し、その工夫で東京進出は成功をおさめていきます。
その頃の徳次氏は、家に帰っても仕事の話ばかり。山本氏は、子どもながらに「この人、ほんまに熱い人やなあ」と感じていました。