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2024.08.07 08:15

たねやの近江商人哲学 バカボンと呼ばれた4代目の事業承継と成功への道

もともとは口伝で引き継がれてきた内容を、山本氏の父・徳次氏が現代語風にまとめました。材木商や種屋だった頃から受け継ぐ根本精神を形式知化したのです。
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2000人のスタッフを抱える「たねや」で、昔のように口伝では経営者の哲学を理解してもらうのは困難です。バイブルは、全社員が所持しており、今の「たねや」の軸をささえる大きな役割を果たしています。

バイブルの中でも、山本氏が大事にしているフレーズが「私は生き生きする前進の心を持っていただろうか」です。

出来事はその日のうちに振り返って反省し、翌朝に新たなスタートを切る気持ちを持つこと。失敗を引きずり続けると自信を失ってしまうので、失敗は新たな目標を掲げるチャンスであり、再び挑戦することが大切、という意味です。

近江商人に通じる、たねやの三本柱

「天平道」「黄熟行」「商魂」が「たねや」が大事にする3本柱だと、山本氏は語ります。
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天平道は、「商売はいかに儲けるか」ではなく、「いかにお客様に喜んでもらえるか、世のためになるか」ということです。「三方良し」の近江商人の哲学にも通じます。

黄熟行は、手塩にかけて育てることです。菓子の原料となる旬の果実が色づき熟れる様を元にした言葉で、自然から学びながら丁寧に育てるという意味です。

商魂は、利潤を求めることではなく、「天平道」「黄熟行」の魂を込めて客に接する心構えという意味です。

「人の道に外れた商いをしていては、いつかは破滅する」と強調する山本氏は、商売人のお手本のようですが、少年時代は「たねやのバカボン(バカのボンボン)」とあだ名される「悪ガキ」でした。

ボンボンと呼ばれることへの葛藤

「まあ、悪ガキでしたよ。勉強もろくにせずにね」。少年時代の山本氏は、弟の隆夫氏(現クラブハリエ社長)と2人で、バカボン1号と2号と呼ばれ、「たねやも、この代で終わりだ」と言われるほどでした。

「たねやのボンボン」と呼ばれることに戸惑い、「なめられている」と勘違いして悪いことばかりしていたといいます。目立ちたがり屋で「山本昌仁ここにあり」と振る舞い、商家の連なる近江八幡市街を屋根から屋根へ飛び移り、走り回るようなこともあったといいます。

しかし、山本氏は、幼い頃からお菓子屋に興味を持っていました。それは、親を見ていると、大変さを感じながらも、楽しそうに仕事をしている姿があったからだといいます。

父の背中「ホンマに熱い人やなあ」

山本氏の父・徳次氏は、どんなことも自分でこなす人でした。当時、スタッフ数も少なかったため、1から10まで自分で手掛け、少しずつ組織を築いていきました。

山本氏が小学校6年生の時、徳次氏は東京進出を仕掛けます。当時、滋賀県の企業は、京都や大阪で実績を残し、東京に進出するのが一般的でした。しかし、徳次氏は「確固たる名を残すには東京」と考え、東京の日本橋三越に進出します。

「お菓子には季節があるんや」。当時の百貨店は、季節に関係なく、いつでも柏餅や桜餅が売られていました。「たねや」は、かしわ餅を売る日、桜餅を売る日、水羊羹を売る日と季節感を全面に押し出し、その工夫で東京進出は成功をおさめていきます。

その頃の徳次氏は、家に帰っても仕事の話ばかり。山本氏は、子どもながらに「この人、ほんまに熱い人やなあ」と感じていました。

ピンポン球を手放さず、饅頭を包む練習

山本氏が、「たねや」を継ぐことを意識したのは中学生時代でした。「継ぐというより、絶対それしかできない。もうこれが自分の生活なんだと思って。10代で修行にでました」。10年間、東京と姫路の和菓子屋で修行をしました。
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