実際の演説でも、間合いの取り方がうまく、自然な感情移入や表現もできていた。それは「英語的な抑揚やリズムを掴む」というレベルではなく、自分の言葉で英語が喋れるからこそ到達できた高いクオリティだった。
スピーチ中には笑いをとり、拍手が沸いた時にきちんと話を止め、うまく次の話につないでいた。どんなに練習しても、音をコピーしているだけではあの仕上がりにはならない。自分の言葉で喋れる人のそれとは雲泥の差があるのだ。英語を聞きなれている人が聞けば、それはすぐにわかる。
原稿やプロンプター(原稿をモニターに表示する装置)があったとしても、聞き手から想定外の反応があると、対応できなくなる場合がある。本当によく練習をしたのだろうと感心する。
また、自分の言葉で英語が喋れるとしても、演説は難易度が高い。母国語であっても「では演説ができるか?」と言ったら多くの人にとっては難しいだろう。それを聴衆が聞きやすく、心に響く表現ができるレベルまでもっていくことは、高度なスキルである。
なお、昨今良いスピーチや演説があると、「スピーチライターがよかったから」という批評を目にするようになった。
どんなにスピーチライターが素晴らしい文章をつくり上げたとしても、演者の話し方が下手だったり(これは非常に初歩的な問題だが…)、英語スピーチで英語に慣れていなかったり、演者自身のあり方とスピーチ内容がかけ離れていたりする場合、聴衆は何らかの違和感を感じる。それが聞き手との距離を隔てる”ストッパー”になってしまうのだ。スピーチライターと演者のスキルのバランスが重要だからこそ、スピーチやエグゼクティブプレゼンスが”アートである”と言われるのだろう。
ポイント3:アピアランスの適切さ
1.歯の白さ
「聞き手に笑わせる話をするのであれば、自分も笑顔をしっかり見せないと!」という動機なのかは分からないが、以前に増して歯が白くなっていた。アメリカという国を知った上でのケアとして、良いのではないだろうか。表情を明るくする効果としてもプラスになる。