実際に「ハドソン川の奇跡」の際もシミュレーションは行われたものの、委員会で機長の判断に疑問が呈されることはなかったそうだ。ただ、映画ではシミュレーションのデータ結果を元に、サリーのイレギュラーな決断に疑いの目を向ける調査員たちが描かれている。
あえてそうした対立をドラマに持ち込んだ理由のひとつは、なぜシミュレーションでは成功したのか?という疑問を前半部に作り出すことで、中盤から後半へのドラマの牽引力を高めるためだろう。
もうひとつは、数字による証明からはこぼれ落ちてしまう、緊急時の人間の心理や行動の具体性に焦点を当てるためだ。それによって、危機の回避は最終的には人間の集中力と判断力に左右されるという、当然と言えば当然だが極めて重要な事実を浮かび上がらせることに成功している。
「笑わない」トム・ハンクス
さてこのドラマで印象に残るのは、サリーを演じるトム・ハンクスが最初から最後までほとんど笑わないことだ。サリー役を演じたトム・ハンクス(2016)/ Getty Images
冒頭は、「メーデー、メーデー」と危機を管制官に知らせる彼の声に始まり、旅客機がニューヨークのビル街に突っ込んでいくという悪夢が描かれる。夢から覚めるのは、マスコミが押し寄せている自宅に帰れず滞在しているホテルのベッドだ。その後、おそらく毎日の習慣としてやっているランニングの途中で、考え事をしていたのか車にぶつかりそうになる。
「機長、ありがとう」と感謝を述べる搭乗客らを映し出したテレビニュースを始め、メディアや周囲の人々の”英雄”扱いに反して、終始、疲労と不安で重く沈んでいるサリーの表情。それは、奇跡と言われるような仕事を成し遂げる、その直前の判断で彼にかかったストレスの大きさを物語っている。実際の機長チェズレイ・サレンバーガーも事故後48時間で激痩せし、心拍数は10週間も元に戻らなかったという。
そこに更に、事故調査委員会での聞き取りという重圧がかかってくる。サリーの判断が常軌から外れていたと見る委員たちの、職業倫理を問いただすような尋問は、仕事のために自己を律した生活を送ってきたサリーにも副操縦士ジェフ・スカイルズ(アーロン・エッカート)にもおそらく失礼極まりないものだっただろう。
ジェフ・スカイルズ役を演じたアーロン・エッカート(2016)/ Getty Images