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2023.12.10 10:00

狂気の「ピアノ殺人」はなぜ起きたか 半世紀後、精神鑑定した医師が記す

『狂気 ピアノ殺人事件』(上前淳一郎著、文春文庫)と中田鑑定の載る『日本の精神鑑定 重要事件25の鑑定書と解説1936-1994』(みすず書房)

中田鑑定の診断は「パラノイア(統合失調症に近い)」だが、これは45年前の診断基準によるもので、私の「妄想性障害」の診断と同一としてよい。違いは副診断として、Aには「自閉スペクトラム症(ASD)」があると私が鑑定した点にある。
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幼少時から吃音症に悩んだAは数字や言葉の表現へのこだわりが強く、対人関係では孤立。音に対する感覚過敏があった。その他に入手した情報と合わせ、ベースに発達障害の中のASDがあると診断した。

聴覚過敏のAにとって「騒音」とは

聴覚過敏のあるAにとって、団地の階下にある被害者宅から漏れてくる「騒音」は耐えがたいものだったのだろうか。事件後の検証によると、階下から聞こえたピアノの音は「中央値44ホン(dBと同じ)」だった。

前回の記事に示した環境省の騒音基準を見返してほしい。住宅地域だから昼間55dB、夜間45dBと、基準内に収まっている。

ところが、その手法には問題があった──ノンフィクションとはいえ、取材事実に基づいて構成された上前氏の著書『狂気 ピアノ殺人事件」に重要な記述がある。
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測定は神奈川県警平塚警察署が平塚市に依頼。県公害防止条例に基づいて測定されたが、県の認定では40~45ホンで不眠や病気の場合には苦痛を感じる影響が人体に及ぶという。

Aはかつて工場勤務し、夜勤で就眠中の午前9時に別の騒音で眠りを妨げられた経験がある。犯行時には職を失っており、通常人と同じに判定するのはおかしいと、事件を騒音の観点から考える「騒音被害者の会」の見解が示されている。

いつ鳴り出すか分からない不安から、団地を逃げ出す準備をしていたAにとって、ただ手順どおり機械的に測定された「音」の大きさだけで判断されてよいのか。

不安が内臓を緊張させ、その緊張が生活リズムを狂わせてわずかな刺激にも誇張した反応が起きるというN・キャメロンの学説を上前氏は同書で紹介。Aが「耳をおおって逃げ回り、ついには母娘三人を殺すという極端に誇張された反応を起こしたのも、この緊張のせいであったと考えられる」と意見を述べている。

実際にAの調書や上申書、中田鑑定をつぶさに読んで得た私の見解とは異なるものの、どこか通底する部分もあると感じる。

半世紀前の事件と切り捨てられない理由

同書の裏表紙に書かれた帯文は「団地の三畳でピアノを弾く者と、その音に耐え切れず凶行に及んだ者と、狂気はいずれの側にあるのか?」。

元記者の立場からは上前氏の言い分は理解できる。戦後わが国の高度成長のひずみ、つまり経済と文化の乖離(かいり)を象徴した事件だと。だが、精神科医の立場からは個人の資質、つまり発達障害と精神疾患が事件の大本であることを忘れてはいけないと強調したくなる。
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文=小出将則

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