Bさんは4年前、職場でいらいらすると当院を受診した57歳男性。幼少時から収集癖や聴覚過敏があり、友人としばしばトラブルを起こしてきた。高校生の時、自宅近くの線路から聞こえる電車の警笛に向かって石を投げ、電車の窓ガラスを割ったこともあった。今はAと同じように団地住まいで、階下の子どもの遊び声が気になり、自分の悪口を言っていると思い込む。
診断名はAとまったく同じ発達障害(ASD)と妄想性障害。診察で話を聴くうちにピアノ殺人事件を思い出したのは言うまでもない。
Bさんは高校でいじめの対象となり、退学して安堵感を覚えた。同時に「自分は社会からの脱落者で自責の念が強い」と訴える。
かたや、Aの肉声は95歳にしていまだ東京拘置所に留め置かれているとされ、社会には届かない。代わりに、『狂気 ピアノ殺人事件』から引用する。
Aは1974年8月下旬の事件当日朝、手にかけた女児が以前、回覧板を持ってきたときにこう言っていたのを思い出した。
「おじちゃん、人間生きてるんだから、音は出るのよ」
それまでAはピアノの音が鳴るたびに外に退散していた。逃げ場のひとつだった図書館が夏休みの子ども利用でうるさくなり、「出口なし」状況に追い込まれたときに思い出した決定打だった。
騒音公害が社会問題化する起点となったピアノ殺人事件から半世紀。当時、中学1年だった私にとって「音」はビートルズなどの「音楽」にほぼ等しかったし、ピアノが騒音になることもあるというのは衝撃だった。
われわれは五感を通して、外の世界と交流する。そのうちの一つ、聴覚も人それぞれという当たり前の事実を改めて突き付けられた気持ちになる。ASDの患者から蛍光灯の発する「音」が気になると言われたことを思い出す。
冬になると、好んで聴く音楽がサイモン&ガーファンクルだ。代表曲「サウンド・オブ・サイレンス」の歌詞に ♪People hearing without listening(人々は耳を傾けることなしに聞き流す)という個所がある。その後、人々は決して分かち合えない歌詞を書く、と続く。
私たちはどんな「音」にも耳傾けるべきではないか、という声の聞こえる気がする。