石橋に転機が訪れる。それは日本に甚大な被害を及ぼした台風だった。1950年に関西地方を襲った大型台風は2万戸以上もの家を倒壊させた。日本の伝統的な木材の家は、大型台風を前になすすべがなかったのだ。多くの家が全半壊し、新たに住宅が必要だったが、復興に必要な木材は、戦争で供出され手に入らない状態がずっと続いていた。そこで石橋が考えたのが、丈夫で簡単に組み立てられる単管パイプによる家「パイプハウス」だった。
石橋は1955年に大和ハウス工業(以下、大和ハウス)を創業。小さな、小さな「大和ハウス」の営業の陣頭指揮にあたり、単管パイプのトラス構造、つまり複数の三角構造による強靭さを説明し続けた。狙いをつけたのは全国に鉄道網をもつ「国鉄」(現JR各社)だった。線路の脇には資材置場があり、車庫、整備品など「パイプハウス」にうってつけの環境だった。しかし、国鉄担当者の反応は良くなかった。「『大和ハウス』? 聞いたこともない会社だな」とはなから石橋をバカにした。石橋は奮然として担当者に言い返す。「国鉄だって小さな会社から始まったんじゃないですか? 始まりはどこだってちっちゃな会社じゃないですか」
石橋の気迫に気おされたのか、国鉄は「パイプハウス」の採用を決める。国鉄での採用は、全国に電話網をもつ「電電公社」(現NTT各社)へとつながった。
そして、高度成長を続ける日本の象徴ともいえる関西電力の「黒部川第四発電所」工事現場に使われたことで「パイプハウス」の評判は決定的なものになる。通称“クロヨン”と呼ばれたこのダム建設は、高度成長をひた走る日本の産業界に電力を供給するための、さながら“国家プロジェクト” だった。1956年に着工したが、切り立った黒部渓谷での工事は困難を極めた。当時の関西電力の資本金のおよそ5倍にあたる約513億円の工事費が費やされ、1963年に完成。7年間で殉職者が171人にものぼった。
人の立ち入りを拒むかのような峡谷で作業員の宿舎などに威力を発揮したのが「パイプハウス」だった。現場に何度も足を運んだ石橋は、時には自らも資材を運び、社員らを鼓舞し続けた。
石橋は、さらに日本住宅建築の思想を根本から覆す日本初のプレハブ住宅「ミゼットハウス」を世に送り出す。日本には存在していなかったプレハブ住宅。“3時間で家が建つ”を謳い文句にした「ミゼットハウス」は爆発的に売れる。