古くからの陸地という安定した地盤に街道を敷き、その両側を碁盤目に街割りして町人地としたのだ。当時は漁村があるくらいの土地で、街割もしやすかったのだろう。
まず日本橋あたりの街づくりをし、街道を敷き、南へ向かって街づくりをしていき、1616年に銀座役所が移されたのだ。地図で見ると日本橋─京橋─銀座─新橋とまっすぐの道でつながっているのがよくわかる。

高速道路を越えたら有楽町や数寄屋橋だし、昭和通りを越えたら東銀座だ。これを「地質図」と重ねてみると、ほぼ重なるのである。実は今でも微妙な標高差があり、銀座の中心である4丁目交差点の標高は約4m、JRの線路あたりは約2.5m、東銀座の歌舞伎座あたりは約2.8mと1m以上の差があるのだ。

日比谷入り江を埋め立てたことで、半島状だった江戸前島は陸地とつながり、江戸前島の南端あたりを通って内陸部と海を結ぶ汐留川が作られ、そこに東海道の橋が新しく架けられた。それが「新橋」だ。「新しい橋」と書くけれども、それが新しかったのは江戸時代初期のこと。今となっては400年以上前だけど、一度「新橋」と名づけられたら未来永劫「新橋」だ。
さきほど、銀座は道路が碁盤目状で道がまっすぐで整然としてると書いたが、もともと平らだった微高地に街道を敷き、計画的に街を作った名残なのだ。ただ、江戸時代の銀座はそこまで栄えてたわけではないらしい。
商人というより職人の街であり、さらに1800年に不祥事で「銀座」事態が別の場所に移転させられたこともあり、幕末には寂れていたようだ。商業エリアとしては日本橋界隈が圧倒的に強く、銀座周辺はそこまででもなかったのである。