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2023.10.30 15:30

アウェイでも「銀座では迷わない」? スクラップ&ビルドで誕生した街

家康が江戸へはいったとき、江戸城の前(日比谷とか内幸町とか)は南から海が入り込む入江(日比谷入り江)だった。その東にお茶の水あたりから汐留あたりまで南に細長く延びている半島状の陸地「江戸前島」があり、その東は海だった。東海道はその江戸前島のど真ん中を貫く感じで作られたのである。

古くからの陸地という安定した地盤に街道を敷き、その両側を碁盤目に街割りして町人地としたのだ。当時は漁村があるくらいの土地で、街割もしやすかったのだろう。

まず日本橋あたりの街づくりをし、街道を敷き、南へ向かって街づくりをしていき、1616年に銀座役所が移されたのだ。地図で見ると日本橋─京橋─銀座─新橋とまっすぐの道でつながっているのがよくわかる。

日本橋から新橋までを貫く東海道。京橋と新橋の間が「銀座」だ。標高で色を変えてある(「カシミール3D」で作成した地図を加工)

日本橋から新橋までを貫く東海道。京橋と新橋の間が「銀座」だ。標高で色を変えてある(「カシミール3D」で作成した地図を加工)

現在、銀座という住所が冠されているエリアは非常に広いが、人々がイメージする銀座の範囲は北は京橋、西は高速道路(とその下のショッピングアーケード街)、東は昭和通り、南は新橋だと思う。

高速道路を越えたら有楽町や数寄屋橋だし、昭和通りを越えたら東銀座だ。これを「地質図」と重ねてみると、ほぼ重なるのである。実は今でも微妙な標高差があり、銀座の中心である4丁目交差点の標高は約4m、JRの線路あたりは約2.5m、東銀座の歌舞伎座あたりは約2.8mと1m以上の差があるのだ。

東海道が通っているところが「江戸前島」で砂州。右側の横線のエリアは埋立地で、皇居と江戸前島の間は氾濫平野。古くからの陸地に街道を通し、町人地にしたのがよくわかる(「スーパー地形」アプリの「治水地形分類図」を加工)

東海道が通っているところが「江戸前島」で砂州。右側の横線のエリアは埋立地で、皇居と江戸前島の間は氾濫平野。古くからの陸地に街道を通し、町人地にしたのがよくわかる(「スーパー地形」アプリの「治水地形分類図」を加工)

銀座あたりは「東京低地」と呼ばれる低地で平らな土地だけれども、もともとの陸地(江戸前島)と埋立地や湿地だった場所では微妙な高低差があり、江戸時代初頭に江戸前島一帯は町人地として整備され、駿府から銀座が移転し、東側の日比谷入り江や西側の海は埋め立てられて武家地となったのである。

日比谷入り江を埋め立てたことで、半島状だった江戸前島は陸地とつながり、江戸前島の南端あたりを通って内陸部と海を結ぶ汐留川が作られ、そこに東海道の橋が新しく架けられた。それが「新橋」だ。「新しい橋」と書くけれども、それが新しかったのは江戸時代初期のこと。今となっては400年以上前だけど、一度「新橋」と名づけられたら未来永劫「新橋」だ。

さきほど、銀座は道路が碁盤目状で道がまっすぐで整然としてると書いたが、もともと平らだった微高地に街道を敷き、計画的に街を作った名残なのだ。ただ、江戸時代の銀座はそこまで栄えてたわけではないらしい。

商人というより職人の街であり、さらに1800年に不祥事で「銀座」事態が別の場所に移転させられたこともあり、幕末には寂れていたようだ。商業エリアとしては日本橋界隈が圧倒的に強く、銀座周辺はそこまででもなかったのである。
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編集=安井克至

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