明治初期の大火でいちはやく銀座はスクラップ&ビルドされた
銀座が一気に商業の中心に躍り出るきっかけになったのは明治初期の派手な「スクラップ&ビルド」だった。明治早々、銀座にとって大きなできごとが2つ起きる。
1つは明治3年に日本最初の鉄道が着工されたこと。東京に一番近い海外との窓口である横浜と東京を結ぶ鉄道だ。東京側の駅は新橋。そうなると横浜から鉄道でやってきた外国人が丸の内や大手町(当時はこのあたりが官庁街だった)へ向かう途中、銀座を通ることになる。東京の表玄関は日本橋ではなく銀座になるのだ。だからいち早く西洋に負けない近代的な町にしたい。
鉄道の開通は明治5年で、新橋まで蒸気機関車がやってきた。
もう1つは、その明治5年、鉄道が開通する数カ月前に銀座を襲った大火である。和田倉門のあたりから出火し、丸の内から銀座、築地一帯が焼失したのである。実際には明治2年、4年と何度も火災にあってるのだが、明治5年2月の火災が違ったのは、そのあとの政府の動き。
火災は2月26日。28日には道路改正が決定。30日には焼失地区の煉瓦化が決定し、3月2日はもう布告されたのだ。ほんの数日で「銀座を煉瓦街にすること」と「道幅を拡げること」が決まったのだ。もともと東京を欧化しようという計画があったとはいえ、鉄道で東京に来た人の表玄関である銀座一帯を火事に強くモダンで欧州に劣らない都市にする文明開化のチャンス! と捉えたのである。
このときもう1つ重要なことが決定した。道幅である。欧米の目抜き通りなどを参考に中央通り(東海道)の道幅を15間(約27.3m)とし、そのうち車道を8間、歩道を左右それぞれ3.5間と決めたのである。江戸時代の道幅は8間だったので2倍近くに拡げられたのだ。
当時車道を走るのは馬車だし、車道と歩道を分けたのは銀座が最初というわけではないのだが、この15間という道幅は、車道と歩道の割合は変わったけれども(車道部分が広くなった)、今でも基本的に変わらない。
明治前期(明治16〜17年)に参謀本部によって作られた5000分の1の「東京測量図」を見ると、京橋を渡って銀座にはいったとたん、道幅が広くなっているのがわかる。
銀座の原型ここにあり、だ。もともと職人中心の町で、幕末にはけっこう寂れていたという銀座が文明開化の繁華街として誕生した瞬間である。
・主な参考文献
「東京の都市づくりのあゆみ」(東京都)
「銀座通連合会100年 次の、100年へ。次の、憧れへ」(一般社団法人 銀座通連合会)
「中央区の歴史」(名著出版)
「中央区沿革図集[京橋編]」(東京都中央区教育委員会)