実るほど自重で穂先が地面に垂れていく稲穂に例えて、「学問や技能が深まると、他人に対してますます謙虚になること」を意味することわざだ。
幼少期、両親があるときから共働きになり、自宅近くにある祖父母の家に学校帰りによく立ち寄っていた。そんなときに祖父が、私に言って聞かせてくれた言葉だ。
そのときは、むしろ「偉くなったら偉そうに振る舞い、偉くない人がぺこぺこと頭を下げるものなのじゃないかな」とことわざの意味に矛盾を感じ、不思議に思ったことを覚えている。
それから時は経ち、自分も経験を積んで、このことわざの意味が少し理解できたかなということを、今回は書きたいと思う。
自分を変えた先輩の言葉
「小田は、全然見えてないね。写真に対する解像度が低い」フォトグラファーとして独立して、まだ間もない20代後半の時期、尊敬するこの業界の先輩から飲み会の席で言われた言葉だ。恐る恐る「どういうことですか?」と、心の動揺を隠しながら聞き返してみた。
「小田の写真は、なんとなくでしかない。この光の当て方、衣装の見え方、全体の仕上げ、全てがなんとなくなんだ。全然デザインされていないし、写真へのこだわりが足りない」
確かに自分自身が撮影した写真と、尊敬する先輩の写真を比べると作品として雲泥の差がある。そして、指摘されるまでその「なんとなく」の状態に少しばかり満足を感じていた自分自身が恥ずかしくなった。
私と先輩では、1枚の写真に向き合ったときに見えているもの、こだわっていること、つまり自分自身への「問い」の多寡が圧倒的に違ったのだ。
そして、先輩は鬱々とした私の表情を読み取ると、こう言葉を続けた。
「もちろん、きみにもいろいろ制約があることはわかる。ただ、じゃあどうすればその状態から脱却できるのか? 満足がいく写真が撮れるのか? 自分の環境も含めて変えていかなければ。ただ、撮る前にそこのところが見えていないと、良い写真は撮れないから」とアドバイスを頂いた。
この先輩の言葉のおかげで、いままで自分はフォトグラファーを続けて来られた気がする。そうか、撮る前に見えていないといけないのかと。
成長とは新たな「問い」の発見
「神は細部に宿る」という言葉がある。一般的には、緻密かつ繊細な「技巧」を指して言う場合が多い。ただ、私は少し違うと思う。実際に、緻密か繊細かはさしたる問題ではない。1つの対象と向き合ったときにどれだけの「問い」の数があるかが重要なのだ。実際には、細部に手を入れなくても、細部に注意を払い、手を入れなかったことも含めて、仕上げられていればいいのである。
そんなことを考えながら、さまざまな人に出会うと、この話は写真の世界に留まる話ではないなと思い始めた。