「いや、会社で徹夜して提案資料をつくって、上司のところに持っていったら、瞬時に誤字脱字やノンブルの抜けを指摘されて読んですらもらえなかった。それでもう一度直して持っていったら、今度はパワーポイントでつくった資料のテキストボックスの高さがズレていると言われて、資料を投げ捨てられた。そこはいいから最低限読んでくれよと思ったよ」
この話を聞いて、「当時は、なんてひどい話だ。もうひどすぎて笑えてくる」と、彼を慰めつつも苦笑いをしていたが、いまになるとその上司の気持ちにも理解できる部分もあるということに思い当たった。
「一事が万事」と言うことわざもあるが、ケアレスミスが頻発するような資料は、内容を読まなくても、それがどのくらいひどいものなのかわかるということだったのだ。
上司の態度に大きな問題があることは認めつつ、提案資料を前にしての「問い」の数が、その上司と新入社員の友人では違い過ぎたのだ。向き合っている仕事に対して自分がどのくらい多くの「問い」を持っているかは、間違いなく「仕事ができる」人間として不可欠な条件の1つなのだろう。
翻って、いまの私はどうなのか? 先輩フォトグラファーからアドバイスをもらった当時からは少し成長したが、まだまだかもしれない。多分、一生そう思い続けるのではないかと最近は思い始めた。
少し「できた」と思っても、今度は新しい「問い」が見えてくる。成長とは、新たな「問い」の発見でもある。そして、「問い」の数が増えれば増えるほど、自らの至らなさや足りなさを痛感するのである。
そんなことを考えているときに、冒頭の祖父の言葉が頭に甦った。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」というこの言葉は「謙虚なふりをしろという処世術のことではないな」と思ったのだ。
あることに熱中して、のめり込んでいくと、次第に、世界が、自分自身が、対象のことが「見えて」くる。すると、いままでより広がった世界に接して、少し大きくなった自分の小ささが、成長する前よりも一層際立って見える。自らの成長よりも世界の広がりのほうが遥かに早いからだ。
なるほど、だから学べば学ぶほどに、自然に謙虚になっていくのだなと思った。
正直、新たな「問い」を見つけ、自分の矮小さを感じることに辟易することもある。そして、気持ちがズーンと落ち込むことも。そんなときは、「辞めたければ辞めてもいいのだ」と自分に言い聞かす、そして結局辞めないならば頑張ろうと思う。そして、この辟易するほどの長い道は、見方を替えれば自らの「伸び代」でもあるのだ。