胎内で被爆。二重の差別の中で
慰霊碑の説明をする前に、まず金さんの半生を辿ろう。金さんは終戦後の1946年1月、広島市で産声を上げた。米軍が原爆を投下した1945年8月6日は、母親のおなかの中にいたことになる。金さんを妊娠中だった母親は原爆投下の翌日、学徒動員されていた長女と次女を探すため、焦土と化した広島市内を歩いて被爆した。金さんは、母親の胎内で被爆した。
金鎮湖さん
終戦とともに、朝鮮半島に対する日本の植民地支配は終結した。人々は「解放」を祝ったが、まもなく米軍とソ連軍がそれぞれ北と南に駐留することで朝鮮は分断されてしまう。1950年に勃発した朝鮮戦争は今も「休戦」中で、この7月27日に休戦協定の締結から70年を迎えた。
分裂が続く朝鮮半島。金さんは北朝鮮の考え方を支持し、20代から「在日本朝鮮人総連合会」(総連)の職員として働いてきた。自身が「胎内被爆者」だったと知ったのは中学3年生の時。父親からは「奇形が生まれる」といった偏見や、結婚や就職に差し障るといった差別への恐れから、「絶対に原爆に遭ったと言ってはならない」ときつく言い聞かされてきた。
また、被爆者健康手帳を取得すれば、医療保障や各種手当を受け取ることができるが、在日コリアンとして差別されてきた経験もあり、「日本政府のお世話になってたまるか」とはねつけた。
だが、原爆は確実にからだを蝕んでいた。60代、肝臓の尾状葉(びじょうよう)が膨張して破裂し、高熱にうなされて数日間意識がもうろうとした。手術と1カ月間の入院の後、医師に「再発はしない」と言われたが、3年以内に2度も同様の症状が出た。
医師に原因を問うも「わからない。初めての体験」と言われるばかりで、「これは原爆の影響ではないか」と考えるようになった。医療は、命に直結する問題だ。術後、プライドを捨てて「被爆者」の証である手帳を取得した。
援護が届かない「最大の原爆犠牲者」
「なぜわれわれはこの地、広島に来るのか。それほど遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力について考えるためだ。10万人を超える日本の男性、女性、子どもたち、多くの朝鮮半島出身者、そして捕虜となっていた十数人の米国人を含む犠牲者を追悼するためだ」2016年5月、米国の現職大統領として初めて広島市の平和記念公園を訪れたバラク・オバマ氏による演説で、朝鮮半島出身の被爆者を知った人も少なくないだろう。