人間がなぜさまざまな技術を手にしてきたかというと、過剰な模倣が起きるからです。つまり、本人は完璧に模倣しているつもりなんだけど、そこにプラスアルファが加わっている。それをどんどん積み重ねて、気がついてみるとオリジナルになっているんです。例えば芸術家だって、多くは模倣しているだけです。だけど、一部の人に過剰模倣が起き、気がついたら印象派からキュービズムが出てきちゃったりするわけです。だから過剰模倣というのが、人間のすごいところなんですね。
ところがAIだと、正確な模倣はできても、過剰な模倣にはなりません。過剰な模倣からオリジナルなものが生まれるというのは、人間にもよく理解できてない不思議な現象なんですね。
三宅:仕事でもアートでも、AIでやればいいと思うのは、それだけ社会がシステマティックになってしまった結果でもあると思うんです。例えばAIに意見を考えてもらえばいいという人は、誰が言っても同じだから、自分で言う必要はないと思っているわけですよね。ということは、ChatGPTが人間に寄ってきたというより、われわれがむしろ、ChatGPTのような存在になっているという感じがします。
アートでも、はやりを取り入れるだけなら早いもの勝ちの世界ですから、誰でもいいわけです。そうやって人間が人間自身を疎外しているところに、AIがうまく入り込んできたような状況になっているのではないでしょうか。
大澤:私が心配していることはまさにそれですね。でも、たぶん僕らはAIを使ったほうが、大体のことにおいて有利になるわけじゃないですか。例えば人間だと50%間違えるけど、AIだと30%しか間違えないんだったら、みんなAIを使うようになる。
ただ、イノベーションにつながるような重要な着想や判断や決断というのは、合理的に正解を探すのではなく、むしろふつうに見れば非合理的な判断をしているわけです。だから失敗も多い。ひとつのイノベーションの影には、それにまつわる99個の失敗があるかもしれない。でも、失敗せずにその1つだけを実行するのは無理なんですね。ところが99%失敗するようなことを、AIはあまり言わない気がします。三宅さんが言うように、僕らがChatGPTに近づくほど、そういう失敗を恐れずチャレンジするというメンタリティは失われてしまうかもしれません。
井上:AI依存が進んで、AIの言うことだから正しいと考える人が増えれば、政治的に重要な判断をAIにゆだねてしまう未来も、あながち荒唐無稽とはいえません。手塚治虫の『火の鳥』でも、敵対する両陣営ともに、核ミサイルのボタンを押したほうがいいとAIが判断して、ほとんどの人類が滅びてしまうという話がありました。
ですから政治であれ経営であれ、最終判断は人間がすべきだと私は思っています。もちろん人間だって、ヒトラーやポルポトのように、人間自身が危険であることも常に念頭に置く必要はありますが。