食&酒

2023.07.01

ストリートコーヒーに見いだした原点

放送作家・脚本家の小山薫堂が経営する会員制ビストロ「blank」では、今夜も新しい料理が生まれ、あの人の物語が紡がれる…。連載第35回。


旅が好きだ。旅は、自らの日常を俯瞰で見直すきっかけになる。自由になる。予期せぬ誰かと出会い、何かと遭遇する。その体験は、長い人生のいつかある日、思いも寄らない花を咲かせるかもしれない。

2021年2月、「京都知新」というMBSの番組の撮影で、名店「祇園さゝ木」の佐々木浩さんと旅をした。向かった先は、僕の生まれ故郷である天草。有明海、東シナ海、不知火海という三つの海に囲まれた天草は、それぞれに獲れる魚の特徴が異なる。佐々木さんにそんな豊富な食材を知ってもらい、何らかの刺激になればと考えたのだ。

初日の夜、僕らは「奴寿司」を訪問した。ここは店主の村上安一さんがひとりで切り盛りするミシュラン一つ星の寿司店で、当時、村上さんは71歳、店は同年9月で50年を迎えるとのことだった。奴寿司では、小肌、車海老、雲丹、真鯛、鱧、縞鯵、蛸など天草の四季折々の新鮮魚介を使っているが、美味しさの理由はそこではない。まず、醤油を使わない。梅塩、雲丹塩、カラスミ塩など、手作りの調味料を使用する。ときには炙ったネタと寿司飯の間にニンニクチップをしのばせる。僕が「同業者から反則技だと言われそう」と言うと、村上さんは「兄弟子からは怒られたけど、美味しかったらいいんじゃないかと思うんだ」と笑っていた。

一般的に料理人というのはあちらこちらを食べ歩きし、それらの味を参考に自らの料理をアレンジするものだろう。村上さんは「ほかの寿司屋に行くと真似になる」というのが持論で、自分のインスピレーションを頼りに美味しい寿司を自由自在に生み出している。全国の寿司通がわざわざ足を運ぶわけだ。

そんな村上さんの元に育った息子ふたりは、2020年1月、熊本市内に「むら上」をオープンしている。兄の村上正臣さんは日本料理店で修業を積み、弟の拓也さんは父のもとで働いた後、福岡の「照寿司」、東京の中華料理店「わさ」でも修業した。父は息子ふたりの独立に際し、ふたつのミッションを与えた。ランチをやること。そして、ふたりだけでやること。その意図を聞いてはいないが、きっと村上さんご自身がランチを続けてきて思うところがあったのではないだろうか。

店はコの字になった銀杏の木のカウンターに10席で、華美すぎない凛とした空間が好ましい。兄弟は天草の食材の豊かさを伝えようと、鮪を除いた魚介は天草の同級生の漁師や信頼している鮮魚店から取り寄せている。父親よりは江戸前に近く、白酢のシャリが軽やかで食べ疲れしない。熊本に帰る楽しみのひとつになった。
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写真 = 金 洋秀

この記事は 「Forbes JAPAN 2023年7月号」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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