僕は、映画のシナリオを書いていたときには、割とかっちり「箱書き」をやっていた。そして、「登場人物が勝手に動き出す」なんて言うのは、言葉としてはかっこいいけれど、そんなもの嘘だろう、と思っていたのである。
しかし、これが予期せずして自分の小説の執筆中に起こったものだから驚いた。そのときの僕はうまく箱が組めずに悩んでいて、「とりあえず書いてみるか」という賭けに出た。
小説を書くことにまだ慣れていなかったので、かなり不安ではあったものの、「こりゃ箱を組んでいてはいいアイディアは出てこない」という直感がしたわけである。
伝えたいけれど、伝えにくいこと
というわけで、「サイケデリック・マウンテン」は全体的な構造はあるにはあったが、それがガッチリ構築されないまま書きはじめた作品だった。すると、なにかに導かれるように物語が綴られていき、さらにあるパートに入ると、本当に自分が書いているのか書かされているのかわからないような状態に陥っていた。第2章は鷹栖祐二というキャラクターの生涯を追った部分で、本作でとりわけ好評なのはこの章だ。この章の半ばくらいから、書き手である自分がストーリーをコントロールしているという感覚が消え、鷹栖祐二というキャラクターと一緒にもがいているうちに、気がつくとこの章を書き終えていた。
その後、このときのような没入感はないし、書き手としてそうならないようにある程度調整しているところもあるのだけれど、ともあれ「サイケデリック・マウンテン」から僕の小説の書き方は変わっていった。
最初に把握する全体的な構造は、かなり大まかなものでよしとし、細部は書きながら詰めていくというスタイルになった。これはちょっと危険なことではある。あまりにラフな地図しか持たないで旅に出ると、途中で迷ってにっちもさっちもいかなくなる、なんてことだってあるかもしれない。
だけどいまのところはなんとかなっている。というのは、旅をしながら地図を描き足していくからだと思う。その後も僕は、「箱書き」の作業一切を放棄したわけではない。書き始めるときはラフだった箱を書きながら細かくしていくというやり方に変わっただけではある。
ただし、細かく足した部分が機能せず、その地図が役に立たなくなって、物語がどこにも到達しない、なんてことはありうる。そういうときはもう一度、書き直すしかないのだろう。