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2023.05.22 10:00

「障害」公表の冤罪女性 出所から3年、夢叶うまでの凸凹道 #供述弱者を知る

小さなトラブルはどんな職場でもある。人間関係がこじれると職場はいるだけでもつらい場所になってしまうものだ。新しい職場でも人間関係がぎくしゃくすることはたまにあったが、職場のスタッフや行政のサポート体制がカバーしてくれた。

当時の取材メモに、西山さんのこんな言葉が残る。

「最初のころは、同僚にうまく話が通じないときに、相手が障害のある自分を見下している、と思ってつらくなった。でも、その都度、誰かが間に入って誤解が解けた。『相手はこういう考えで言っているんだよ』と説明され、理解できるようになった。うまくやれるかどうかは、人に恵まれることも大切だと思う。経験を重ね、私も成長できていることを実感している」

冤罪に巻き込まれた病院の職場では、看護助手だった西山さんは上司との関係に苦しんだ。

「お茶をこぼしたり、手順を間違えたり、いろんなミスをして看護主任に毎日のように叱られていたけれど、もし私の障害のことを分かってくれていたら、きっと違っていたと思う」

収監中13年間も、諦めきれなかった「夢」

障がい者雇用で大手機械部品会社で働いたのは、1年間だった。そこでの仕事には充実感があった。だが、西山さんには、諦めきれない「夢」があった。

逮捕時から13年に及んだ収監中、ずっと胸に秘めてきた夢──。出所から2カ月後、まだ、仕事先が決まらなくてつらい思いをしていたころ、その夢を支援者らが開いてくれた「囲む会」で話している。

「事件に巻き込まれる前、実は介護福祉士を目指していました。まずは、看護助手として病院でおむつ交換などの介護の実務経験を3年積んで、それから資格を取ろうと思っていたんです。私はおばあちゃん子なので、お年寄りの世話をする介護の仕事が向いている、と母にも勧められました。これから高齢化が進んでいくし、母親のことも考えると……」

「おばあちゃん子だった」という西山さんが祖母と撮ったプリクラ

「おばあちゃん子だった」という西山さんが祖母と撮ったプリクラ


母・令子さん(72)は娘が逮捕されてから5年後、脳梗塞を患い右半身が動かなくなった。西山さんは収監中、令子さんが車椅子の生活になったことを自分のせいだと思い、両親への手紙に繰り返し「早く私がお母さんの手足になって助けてあげたい」とつづっていた。

ただ、再び一から介護の仕事を目指すのは不安もあった。出所して間もないころ、たまたま観た映画で人工呼吸器が出てくる場面が流れると、事件の忌まわしい記憶がフラッシュバックし、吐き気をもよおすという出来事があった。

また、自分に障害があることが分かったいま、介護の現場に立つことに「壁」がある厳しい現実も知った。ハローワークで介護の仕事を希望すると、職員にはっきり言われた。

「障害者雇用で介護の仕事を探すのは、なかなか難しいですよ」

それでも、機械部品会社の障害者雇用で1年間の社会人生活を経験し、西山さんの気持ちの中で「介護の現場に立ちたい」という思いが日増しに募っていった。

一念発起。ついに、介護の職場の門をたたく。2019年11月末、西山さんは機械部品会社を辞める。新たな仕事場は、自宅から歩いて通えるほどの距離にある施設での、障害者雇用ではない、一般雇用での就職だった。

12月1日のフェイスブックに、西山さんはこう書き込んだ。

「今日から新しい職場で、再スタート!! 40にして、新たにきちんとした仕事をしたくて。覚えるの、大変です」

ついに念願の思いをかなえられる職場にたどり着いた、という高揚感がメッセージから伝わってくる。出所から2年3カ月が経っていた。次回は、どのようにして念願の介護資格を得たのか辿る。

連載:供述弱者を知る

文=秦融

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