しばらくは有力な情報は得られなかったが、ある日、玉川学園前駅の神社で影山流の稽古が行われているらしいという書き込みをネット掲示板で見かけた。その情報を頼りに半信半疑ながら神社に足を運んでみたところ、たまたま居合わせた影山流の関係者から入門の糸口をつかんだ。
それ以来、仕事の合間をぬっては神社へと通い、まずは境内の清掃や神社の行事の手伝いから始めた。次第に影山流関係者に顔を覚えてもらい、声をかけてもらえるようになった。入門の許しを得て剣を握るまでに一年、季節は一巡していた。
入門の際は伝統に則り、誓いの起請文に血判を押したという。
なぜ影山流なのか
影山流の稽古では、師匠から手取り足取り教えてもらえるわけではない。昔の職人技の伝承や芸事の習得がそうであったように、教わるのではなく、師匠の動きを見て覚えていくという格好だ。しかも師匠が神社に来て稽古をつけるのは祭事の際など、年間を通じそう多くはない。その際、泰圓澄さんは動画や写真はもちろんメモさえとらず、もてる全神経を集中させ、いくつもの手数(居合の形の種類)をひたすら身体と頭に叩き込む。仮にメモをとったとしても、言葉に出来ないニュアンスの動きが多くあるそうだ。
しかしどうしてここまでの熱量をもって、影山流という古武道を習得しようとするのだろうか。
「もともと地方の文化や生活に根ざし、継承されてきた古武道というものに興味を持っていたんです。なかでも影山流は当時の所作が現在までほぼそのまま受け継がれてきた、稀有かつ個性的な流派。そこが影山流の大きな魅力の一つです。また近年縮小傾向にある古武道の文化を絶やさないよう、微力ながら力になりたいという思いもあります」
稽古に見返りはあるか
「稽古」とは元々は漢語に由来する言葉で、「古(いにしえ)を稽(かんが)える」と書く。昔のことを考え調べ、今どのようにすべきかを正しく知るといったような意があるそうだ。「たとえば刀に対する手の掛け方ひとつをとっても、影山流ならではの道理があります。代々伝えられてきたその所作を、現代の自分がなぞることで、ふと昔の人とコミュニケーションをとっているような気持ちになることがあるんです。時代や環境を超えて先人と繋がる……その瞬間は何事にも変えがたく、充実感につながっています」
多くの人が時間に追われている現代。稽古や習い事などには、それなりのメリットや見返りを求めるものではないか。そんな問いに、泰圓澄さんは「学んで楽しむこと自体が何よりもの見返りですね」とさらりと答えてくれた。