私が厚木工場にいた頃、盛田さんから電話があって「今、スティーブ・ジョブズがきてるんだけど、工場が見たいというから案内してくれ」と言われた。あのジョブズがくると聞いて、みんな舞い上がった。エンジニアにとっては神様みたいな存在だ。
私は三時間ほどかけて技術部門や製造ラインを案内した。ジョブズは、しきりに「興味深い」と感心していた。
ソニーの社員がみんなフレンドリーで、ジョブズが近づいても気にせず仕事を続けることに驚いていた。強制されている様子がなく、自主的に働いているように見える。みんなが仕事を楽しみ、しかも製品がちゃんとできるのだから、理想的な工場だと褒めてくれた。
設立趣意書の〈自由闊達にして愉快なる理想工場〉を知っていたかはわからないが、彼が感心したのはまさに井深さんのビジョンが実現している点だった。
のちに私はアップルの工場を見学させてもらった。厚木工場を案内したお返しだ。非公開だったプログラミングのソースコードもすべて教えてもらった。ソニーへのリスペクトがそれだけ大きいことを感じた。
スティーブ・ジョブズといえば、2005年にスタンフォード大学の卒業式で語ったスピーチが思い出される。彼は次の言葉を引用して締めくくっている。
〈Stay Hungry. Stay Foolish. 常に飢えてあれ。常に愚かであれ。〉
私はこの名スピーチを聴いたとき、厚木工場を見学してしきりに感心する彼の姿が目に浮かんだ。「井深イズム」に通じると思えたからだ。
ジョブズたちがコンピュータを手がける際、企業向けの大型機でなく、個人用のパーソナルコンピュータにこだわったこと。1社に1台が、やがて一家に1台、1人1台になること。「ウォークマン」のように家に置いてあるものがどんどんコンパクトになり、持ち歩けるようになること。開発者の個性や自由な発想が、人々の心をつかむこと。それが世の中に広まるまでやめないこと。
世界に広まったジョブズのコンセプトは、ソニーのコンセプトであり、「井深イズム」だと私には思えてならない。
ジョブズは、盛田さんという「井深教」の実践者を通じて「井深イズム」を吸収し、自分の製品づくりや経営に役立てたのだろう。
アイフォーンやアップルウォッチを見るたびに、井深さんの笑顔が思い浮かぶのは私だけだろうか。