スティーブ・ジョブズの心をつかんだ、ソニー創業者の「井深イズム」

『ソニー創業者の側近が今こそ伝えたい 井深大と盛田昭夫 仕事と人生を切り拓く力』(郡山史郎著、青春新書インテリジェンス)

一橋大学を卒業後、伊藤忠商事の商社マンとなった著者がある日曜日、若い社員たちで湘南海岸に遊びに行ったときのことである。ふと目をやると、女子社員のお弁当が包まれていた新聞紙に、「貿易要員、急募」と書かれていた──。

その求人広告がきっかけでソニーに転職、25年後には取締役となり、創業者井深、盛田とともに経営陣に名を連ねることになった著者が見たものは?『ソニー創業者の側近が今こそ伝えたい 井深大と盛田昭夫 仕事と人生を切り拓く力』(郡山史郎著、青春新書インテリジェンス)から以下、その一部を転載で紹介する。


東京通信工業の設立式で語っていたように、井深さんは約20人の小さなベンチャー企業が大企業に勝つには「技術の隙間」を見つけていくしかないと考えた。つまり、はじめから技術革新によって他社にない製品、ソニーらしい製品をつくるというニッチ戦略が基本方針だった。しかも早い時期から、競争の土俵は、巨大なアメリカ市場だと見定めていた。

私がアメリカ法人にいた1966年4月の社内報に、次のような井深さんの言葉が載っている。

ソニーが今度は何を出すだろうということは、米国のエレクトロニクス業界だけでなく、大きくいえばアメリカ人全体の期待を受けているような気さえします。


なぜソニーはそんなに大きく期待される様になったかといいますと、まず第一に、ソニーは人の真似をしないということでしょう。第二には、なんでもかんでも作るというのではなく、出すからには人々にピンとくるものをピンとくる様な方法で出すということでしょう。

たしかに当時のソニーは、他社の真似ではない製品を人々がピンとくる方法で売り出し、アメリカ市場で存在感を高めていった。経営トップの井深さんが解説しているのだから間違いない。

井深さんは「誰もやらないこと」にとにかくこだわった。商売人の発想ではなく、根っからの発明家なのだ。大学時代に発明した「走るネオン」は、パリ万国博覧会で優秀発明賞を受賞したのだから天才発明家といってよい。トップが「誰もやらないこと」を第一義に掲げたら、技術者たちは常に技術革新を求められる。

井深さんは89年に「文化功労者」に選ばれ、表彰を祝う会の挨拶で次のように語った。

思い起こせば、トランジスタにしてもトリニトロンにしても、私は何も知らなかったわけで、それゆえ皆さんになんとかよそがやっていないものをつくろうと、だだっ子のように無理難題を押しつけてきました。その無理難題を皆さんは真正面から受け止めて、気持ちを一つにしてやり遂げてくれました。ほんとうにどれだけ苦労をかけたかわかりません。


他人がやらないこと、他社がやらないことは大きな苦労が伴う。誰かの真似に比べて、失敗したときのリスクも大きい。井深さんは、それでもオリジナリティは追求すべきだと社内報で語っていた。

いつの世になっても通用するのは、人のやらないことを苦労してやっていきましょうということだな。苦労しときさえすれば、その時は苦労でも、それが後になって必ずものを言うんだよね。(90年5月「タイムズ」)


井深さんが文化勲章や勲一等旭日桐花大綬章に値するのは、〝世界のソニー〟を育てたことだけではない。電子産業をはじめとする日本製造業の振興に大きく寄与した功績が含まれている。

日本の電子産業は80年代から90年代にかけて世界をリードし、自動車業界より大きかった時期もある。ソニーは日本の電子産業に少なからず貢献した。

ソニーはトランジスタラジオ、テープレコーダーの時代から、部品を発注するメーカーに自社の技術を公開した。ソニー製品の部品を製造しながら成長した大企業は一社二社ではない。

部品メーカーを育てたのも「井深イズム」のひとつだ。もちろん、部品メーカーが増えればソニーにとってもメリットがあり、ウィンーウィンの関係を築いていった。80年代に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれた日本企業の躍進は、井深さんが大功労者の一人といっていい。
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