都内に中国各地の地方料理の店を10店舗経営する梁さん、その仕事に向き合う姿勢や飽くなき挑戦の原動力は何なのだろうか。
梁さんは1980年代から90年代に来日した新華僑のひとりで、筆者が言う「ガチ中華」の第一世代でもある。彼の個人ヒストリーを紐解きながら、「ガチ中華」が日本に現れた歴史的背景について考えてみたい。
梁さんの母親は残留孤児だった
筆者が梁さんと知り合ったのは2年半前のことだ。いまでは古くからの友人のような関係になっているが、急速に親しくなれたのは、彼と年齢が同じだったこともある。また、筆者が「地球の歩き方」の取材を通して中国東北地方の現地事情に精通しており、梁さんの出身地である黒龍江省のチチハルも以前から何度か訪ねていたからだとも思う。チチハルは黒龍江省西部に位置する同省第2の都市で、清国時代には役人が駐在する同省の中心地だった。黒龍江省といえば、現在の省都のハルビンが有名だが、ここはロシアが東清鉄道を敷くために20世紀初頭に建設された新しい都市なのである。
チチハルはいまでは中国国内には数少なくなった耕作地化されていない草原が残るフルンボイル平原の広がる内モンゴル自治区東北部と接している。漢族とこの土地の先住民族であるモンゴル族や満州族のほか、ダフール族やエヴェンキ族といった大興安嶺という黒龍江(アムール川)を隔ててシベリアに連なる深い森にかつて暮らしていた少数民族も住む。市街地の北部に扎龍自然保護区という湿原があって、夏はタンチョウヅルなどの飛来地になっている。
幼少期の梁さんは絵を描くのが好きなおとなしい子供だったそうだ。幼なじみに同じチチハル出身の現代美術のアーティストとして知られる王舒野さんがいる。王さんは北京中央工芸美術学院(現・清華大学美術学院)を卒業後、1990年に来日。現在は鎌倉に在住し、哲学的な作風の抽象絵画を制作している。
2人は小中学生時代、同じ学校に通っていた。当時それほど深いつきあいはなく、来日してから交流が始まったそうだ。実は、梁さん自身もチチハルの美術専門学校を卒業しており、商業美術を学んでいる。2人が話の合うのは、同郷だからという理由だけでもなさそうだ。梁さんの経営する御徒町の北京風居酒屋「老酒舗」にも王さんはたまに現れるという。
梁さんが来日したのは1995年12月。その頃、留学以外の目的で来日した人たちには、日本となんらかの縁があったが、彼の場合、母親が残留孤児だった。残留孤児とは、第2次世界大戦の敗戦前後の混乱で親と離ればなれになり、中国に取り残された日本人の子どもだ。
1972年の国交正常化をきっかけに多くの残留孤児が帰国した。ちなみに東京・蒲田にある羽根付きギョーザで有名な中華料理店「你好(ニイハオ)」の八木功さんも残留孤児の1人だ。
残留孤児である梁さんの母親が帰国したのは1994年と少し遅かったのは、自分の育ての親を看取るまでは中国で一緒に暮らしたいと考えていたからだという。来日する前、梁さんは「日本に行けばいい生活ができるだろう」と考えていたそうで、妻子とともに母親を追って日本へ。彼自身は32歳で、娘さんは6歳のときだった。