同性愛、娼婦──社会問題を柔らかく提起できるオペラの実力

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世界の歌姫がMET復帰に選んだ、アカデミーノミネート作

一方の「めぐりあう時間たち」は、メトロポリタン・オペラが上演した毎年いくつかの作品をそのまま映画化し、世界中で上映しているうちの一本だ。本当はニューヨークまで出かけて劇場で観たかったが、この作品が上演されていた昨年末は、自分のオペラ公演もあって、とても海外には行けなかった。

映画ではどうしても、劇場で観た時のように歌手たちの声の輝きや息遣いまでは感じられないが、舞台をさまざまなアングルの映像で捉えているので、様子がよく分かる。日本にいながら作品を観られるのは、ありがたいことである。

もちろんメトロポリタン・オペラの作品だけあって、合唱の衣裳一つ一つや背景の美術にまでこだわり抜いた演出だったが、本作にもプロジェクション・マッピングが多用されていた。映画には、デザイナーがプロジェクション・マッピングについて語るインタビューのシーンもあり、その技術が既に現代のオペラ演出には欠かせない要素になっていることを、改めて感じた。

そんな本作は、マイケル・カニンガム作の小説「めぐりあう時間たち 三人のダロウェイ夫人」が原作の新作である。2002年の映画化作品はアカデミー賞で9部門にノミネートされ、主演のニコール・キッドマンは主演女優賞を受賞した。

このオペラは昨年12月にワールド・プレミアを迎え、最近のメトロポリタン・オペラには珍しく、すぐにソールドアウトとなった。背景には、アカデミー賞ノミネート作品のオペラ化に期待が寄せられたこともあるのだが、何と言っても一世を風靡した世界の歌姫、ルネ・フレミングのメトロポリタン・オペラ復帰が、大きな話題を呼んだ。

ルネ・フレミングといえば、オペラ歌手として初めてスーパー・ボウルで国歌斉唱をしたアメリカ人のソプラノ歌手だ。彼女はプリマ・ドンナとして、90年代の終わりから2000年代にかけて世界に君臨していた。しかし、2019年にオペラ「薔薇の騎士」で当たり役の元帥夫人役を歌ったのを最後に、メトロポリタン・オペラの舞台からは引退した、と思われていた。

 「薔薇の騎士」で元帥夫人を演じるルネ・フレミング(2016年ロンドンのロイヤル・オペラハウスにて)

「薔薇の騎士」で元帥夫人を演じるルネ・フレミング(2016年ロンドンのロイヤル・オペラハウスにて)

しかし今回、彼女はこの新作のプリマ・ドンナとして、再びメトロポリタン・オペラに舞い戻ってきた。しかも「めぐりあう時間たち」をオペラ化しようというアイディアそのものが、彼女の発案だという。さらに本作品では、ルネ・フレミングを含め3人の女性が主人公を務めるが、ほか2人の主演メンバーも豪華だった。

2人目はオペラ界のスター、現在メゾソプラノといえばこの人、というジョイス・ディドナート。そして3人目はミュージカル界の大スター、「王様と私」でトニー賞を取ったケリー・オハラである。

オペラ歌手は通常、4年くらい先のシーズンのスケジュールを調整しながら過ごしている。そのため今回、スーパースター3人のスケジュールを合わせることは、至難の業だったに違いない。そのうえ新作オペラとなると、既存の名作オペラに比べて、役作りの準備や練習にもはるかに時間がかかる。世界のディーバ、ルネ・フレミングの力なくしては、このキャスティングは実現しなかっただろう。

今回、作曲が始められる時点で、3人が競演することは決まっていたという。したがって作曲家のケヴィン・プッツは、3人にあて書きで曲を提供したことになる。現代の作曲の大家が、現代を代表する、しかも円熟期を迎えた女声大スター3人にあてて書いたオペラ、それがこの「めぐりあう時間たち」なのだ。
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文=武井涼子

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