もとより、未来を予測することは容易ではないが、かつて、「進歩史観」という言葉があったように、歴史は、紆余曲折を経ながらも、大局的には、ある方向に向かうと考えられていたからである。
例えば、「民主主義」という政治体制は、時間はかかっても、世界全体に広がっていくと考えられていた。特に、冷戦終結後は「民主主義の勝利」が声高に語られ、フランシス・フクヤマは、著書『歴史の終わり』で、最終形態としての民主主義の勝利を語り、社会の永続的な経済的繁栄を語った。
しかし、現実の歴史を見るならば、ロシアによるウクライナ侵攻が起こり、民主主義の手本であるべき米国でも、虚偽の主張と大衆の扇動によって民主主義の基盤は危機に瀕している。また、世界全体で見るならば、独裁的政治体制の下に暮らす人々の数は、むしろ増大の一途を辿っている。そして、貧富の差も、人類の歴史始まって以来、最大の格差となり、貧困層の生活は、ますます苦しくなっている。
では、なぜ、現在の人類社会は、これほど、かつての未来予測を裏切る姿を示しているのか。
それは、現代の市場や社会や国家というシステムが、極めて高度な「複雑系」になったからである。
この「複雑系」という概念は、1990年代にブームとなり、その後、メディアも識者もあまり使わなくなったが、実は、これからの世界と歴史を考えていくとき、ますます重要になっていく概念である。
では、「複雑系」とは何か。
その本質を、「知の巨人」と呼ばれた人類学者グレゴリー・ベイトソンは、次の言葉で述べている。
「複雑なものには、生命が宿る」
すなわち、市場や社会や国家というシステムが、内部での相互連関性を高め、高度に複雑になっていくと、「創発」や「自己組織化」と呼ばれる性質を強めていくため、あたかも「意志」を持った「生き物」のような挙動を示し始めるのである。
そして、この「複雑系社会」では、厄介なことに、「バタフライ効果」が頻発するようになる。
言葉を換えれば、市場や社会や国家というシステムの片隅の「小さなゆらぎ」が、システム全体に「巨大な変化」をもたらすようになるのである。
こうした性質を、筆者は、拙著『複雑系の知』において「摂動敏感性」という言葉で述べているが、この性質のため、我々は、現代の市場や社会や国家の未来を「予測」することができないのである。
すなわち、どれほど精緻な理論モデルを用いて、市場や社会や国家の未来を予測しても、そのシステムの片隅で偶発的に起こる小さな出来事が、その未来を大きく変えてしまうのである。