「読んでいない」と「読んだ」は意外と区別しにくい
序章で、著者は以下のように記している。
「『読んだ』とされる本に関しては、『読んだ』ということが正確に何を意味しているかを考えるべきである。読むという行為はじつにさまざまでありうるからだ。反対に、『読んでいない』といわれる本の多くも、われわれに影響を及ばさないではおかない。その本の噂などがわれわれの耳に入ってくるからである」
たとえば海外文学や古典の名作について、読んでいないにもかかわらず、なんとなく内容を知っているという人は少なくないだろう。話題にのぼった際、当たり障りのないコメントを述べてやり過ごした経験すらあるはずだ。そうした人々が「読んでいない」のは間違いない。それでも、「読んだ」人と区別するのは非常に難しい。
更に言えば、自分自身が「読んだ」と信じ込むことさえ難しい場合もある。学生時代の読書経験を思い出してみよう。面白いと感じた本を思い起こすこと自体は簡単だ。しかし内容を説明しろと求められれば口ごもってしまう。タイトルすらはっきり言えないかもしれない。私たちはその本を本当に「読んだ」のだろうか?
大胆不敵で、しかしどこか腑に落ちる持論を、著者は本書の中で実践すらしている。本書では古今東西、様々な書籍が引用されるが、それらには注釈が記されており、「ぜんぜん読んだことがない」か、「ざっと読んだことがある」か、「人から聞いたことがある」か、「読んだことはあるが忘れてしまった」かの四種類に分けられているのだ。そのうえ、登場する全ての書籍に評価が下されている。中には「ぜんぜん読んだことがない」うえで「ダメだ」と評価された可哀想な作品もある(実はこの注釈はもう一つ、重要な役割を秘めている。その真意は本文だけでなく、訳者である大浦康介氏のあとがきまで読み切った人への「お楽しみ」だ)。
無闇に書籍を腐そうとしているわけではない。そうではなく、読書という行為そのものの曖昧さを疑っているのだ。著者は過去に刊行した自著さえ「読んだことはあるが忘れてしまった」としている。先述した四つのカテゴリーからもわかるとおり、本書で登場した書籍で著者が「きちんと読んだ」と言い張るものは一冊もない。良いか悪いかではなく、読書とはそういうものである、というのが著者の主張なのだ。