悩む押富さんに、ドラ先生が「もう、お願いだから受けてよ」と強く迫り、受け入れざるをえなかった。が、術後の経過は期待通りではなかった。
当時のすさんだ気持ちを「秘密のブログ」では詳しく描写している。
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呼吸困難感は相変わらずあった。
私は荒れた。
手術3日後、声まで犠牲にしたのに苦しいことに納得いかなくなり気切(気管切開)なんてしなきゃよかったと思った。
思うように動かない手で、カニューレのひもをほどこうとしていた。
カニューレなんていらない。これを抜けば穴はふさがるから…そう思って必死だった。
看護師さんに見つかり押さえつけられ、ドラ先生が呼ばれた。
痛いから嫌がっているのだろう…そう思われ、痛み止めの注射が打たれた。
何にもわかってない! 涙が出てきた。
先生の前で見せた、初めての涙だった。
必死にカニューレを抜こうとする私に先生は「交換しよう」と言ってカニューレ交換をした。
ひもは蝶々結びではなく、取れないように固く結ばれていた。
もう、だれもわかってくれない…
悔しくて、悔しくて… その日は誰にも会話しようとせず眠った。
次の朝、心配したのかドラ先生がやってきた。
「昨日はごめんね。まだ怒ってる?」
なんかどうでもよくなって、怒ってないと伝えた。
こうして話せない日々を過ごし、だいぶ落ち着いてきたところでスピーチカニューレという声の出るタイプのチューブに変えてもらった。
それから何度も声の出ないタイプのものとスピーチタイプを使い分け、いまも気管切開のままである。
あのとき、本当に選択肢は気管切開しかなかったのかは今も疑問に思っている。
あのタイミングで本当に気管切開しなくてはならなかったのだろうか?
ゆくゆくは確かに必要になっていた。
でも、声が出なくなるこの処置を受けるのはもっと後でも良かった気がしている。
いまとなってはどうすることもできないんだけど…
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カニューレを引き抜こうとする自傷行為。勝気な押富さんが初めて見せた涙。
これらは声を失って、なおかつ呼吸困難が続くことへの怒り、悔しさの表れだった。言葉を発せられないため、その気持ちを説明することもできず、心の危機と言える状況だったようだ。
患者の目で見ると「異質な世界」
その中で、作業療法士である押富さんは怒りや悲嘆の悪循環に陥るのではなく「医療をよりよくするために、今の自分にできること」を考えていった。
のちに、こう書いている。
「病院でOT(作業療法士)として働いてきて、今度は患者として長期の入院を経験して、病院という環境に対してのイメージがガラリと変わりました。 病院勤務していた私にとって、そこは日常の一部でした。職場としては居心地がいい場所でしたが、患者になって何年も過ごしてみると、そこは社会から隔離された異質な場所でした」(作業療法ジャーナル2013年8月号)
患者の目として眺める「異質な世界」を多くの医療者は気づいていない。だからいつか自分が情報を発信できる立場になったら、自分の体験を多くの医療者に伝えたい、と押富さんは考えた。
「一番怖いと思ったのは、私自身も働いていたときに同じようなことを無意識にやってきたのかもしれないということでした。もし、患者という立場にならなければ、ここまで自分の業務態度を振り返ることはできなかったのでは」(同上)という問題意識だった。