一番やるせないシーンは、必死で父についてきたブルーノを、一回口答えしたからとぶつ場面。焦りと疲労による子どもへの八つ当たりだ。
それまで文句ひとつ言わなかったブルーノが、この時だけ幼い子どもの顔になってべそをかく姿に、こちらも一緒に泣きたい気分になる。こんな仕打ちを受けるいわれはないだろう。でも思わず出てくる言葉が「ママに言いつけてやる!」なのがかわいい。
疲れ果てて「ピザでも食うか」と入ったレストランは分不相応で、チーズ一品しか頼めないのだが、父を心配しつつもおいしそうにそれをパクつく息子の前で、アントニオはやおら稼げるはずだった金の計算を始める。よくよく空気の読めない男である。
レストランのシーンで印象に残るのは、通路を挟んで斜め後ろのテーブルを囲んでいた富裕層家族の、ブルーノと年の頃が同じくらいの少年が、時折ブルーノに投げる軽蔑したような眼差しだ。彼を気にしつつ振り返るブルーノ。敗戦ではっきりと可視化されることになった貧富の差、強者と弱者の対比が、残酷に浮かび上がる。
弱者の中にも対立は生まれている。古いビルの中で政治集会を開いている労働者たちと、コントを練習中の芸人グループのいさかい。盗品ではないかと疑われて怒る、広場で自転車を売る男。追っていった犯人の若者の家も決して豊かではなく、揉め事とあらば出てくるのは地元のマフィアのような連中だ。
一方で、アントニオの友人バイオッコと掃除夫の仲間たちの協力など、弱者同士の地味な助け合いも描かれる。彼らが手分けして自転車を探す市場のシーンは社会の縮図だ。何百台もの同じような自転車、部品に解体されまた組み立てられる大量の自転車、それは戦争に動員された後、労働力として消費されていく彼らの姿そのものである。
「父の自覚」をもたらす水
余裕を失ってなりふり構わない父、その後を追う幼い息子の関係は、”水”に関する三つのシーンに象徴的に現れている。
一つ目は、さまざまな市で賑わう広場で突如雨が降り出す場面。人々が一斉に露天を畳んだり右往左往したりする喧騒、皆が雨宿りのため建物の陰に身を寄せ、雨音以外は静まり返る広場、やがて雨が上がり人々がまたそれぞれの持ち場に帰っていくまでの一連のシークエンスは、あたかも一編の叙事詩か交響曲のようである。
その日を生きることに必死な人々の営みの上に降る雨は、貧しい父子の自転車探しを天から見守る神の視点のメタファーだろう。だが濡れた道で滑って転んだり、雨宿りに割り込んできた神父たちに押されて難儀したりしているブルーノを気遣うゆとりが、アントニオにはない。
二つ目の”水”は、頬を打たれてふくれっ面のブルーノを橋のたもとに残し、アントニオが土手を降りていく場面。突如上がった「子どもが溺れているぞ!」という叫びに不安に襲われ、急いで駆けつける彼の目に、ボートに救出された他所の少年の姿が映る。
偶然出会った水難事故によって、それまで自転車だけで占められていたアントニオの頭の中は、ここで一気にブルーノで一杯になる。流れゆく川の水は、硬直したアントニオの心に一瞬「父の自覚」をもたらすのだ。
最後の”水”は、ブルーノとアントニオの涙である。ついに、人々に取り囲まれ責め立てられる「自転車泥棒」となってしまった父。悲しみと悔しさ、父への同情と怒りが、涙を流しながら、落ちた父の帽子の埃を何度も強く払うブルーノの手つきに現れている。
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解放されてとぼとぼ歩くアントニオは、思いを込めて自分を見上げるブルーノに気づき、その目を初めてまともに見て嗚咽を漏らす。父の手を取るブルーノと息子の手を握り返すアントニオの目に同時に光る涙。
”水”は、父子を見守る雨、父の自覚を促す川、最後に彼らの涙となって流れることで、ようやく二人の心を一つに重ね合わせるのだ。
連載:シネマの男〜父なき時代のファーザーシップ
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