コトバは、それ自体がもつ論理性だけでは意思疎通手段として不十分だ、という指摘であり、経験的にもうなずける。パルバースの言う「文脈」には、コトバが発せられたときの状況やムードのみならず、そのコトバに盛り込まれている歴史や文化、森羅万象への発言者と受け手の感受性まで含まれる。
したがって、コトバは論理性とともに、文脈という論理だけでは解明しにくい要素を含んでいる。しかも、これらは往々にして容易に分離できないほど融合している。コトバの多くは、論理と非論理で割り切れるほど単純ではない。
ここに文学の重要性がある。ロシアのウクライナ侵略戦争を理解するために、ニュースやYouTubeの画像はわかりやすい。新聞、雑誌の報道も大いに参考になる。だが、これらも戦争の全貌や現地の人々の心のあやまでは伝えきれるものではない。戦争の悲惨さや人間の身勝手さ、一方で理想論と現実論を併せ考え、人間の強さにも思いを致すために、私たちは、トルストイの『戦争と平和』やレマルクの『西部戦線異状なし』、大岡昇平の『俘虜記』を読む。文学の存在価値のひとつであろう。
コトバを理解し有益なコミュニケーションを実現するためには、論理性とともに、論理以前あるいは論理を超えた文学にも触れなければならない。バルパースが喝破しているように、「小説の誕生が民族のアイデンティティを作る」ものでもある。
こう考えると、最近、高校の国語教育を「論理国語」と「文学国語」に分けた意味がよくわからない。国際学力調査で日本の子どもたちの「読解力」が低下している結果を受けた措置であり、実社会で使える国語力を磨くためだそうだが、いかがなものか。コトバにとっては、論理も非論理もともに大切だ。教育行政の「専門家」にこそ、コトバの意義を理解していただきたい。
彼らにお聞きしたい。「ふたつのはやぶさのチームにとって、神社参りは単なる時間の無駄遣いだったのですか?」
川村雄介◎一般社団法人 グローカル政策研究所 代表理事。1953年、神奈川県生まれ。長崎大学経済学部教授、大和総研副理事長を経て、現職。東京大学工学部アドバイザリー・ボード、嵯峨美術大学客員教授などを兼務。