はやぶさチームに共通した「神社参り」

川村雄介の飛耳長目

はやぶさ2の離れ業は、最先端の「理系」チームによる超人的な努力の賜物であった。初代はやぶさの快挙にも驚嘆したが、続いての偉業に目を見張ったものである。

私のような「文系」人間には夢のような話で、理系の俊才たちの頭の構造はどうなっているのか、おそらく稠密(ちゅうみつ)で正確無比の論理の塊、非科学的なことなどおよそ信じないものと思い込んでいた。

ところが、である。初代のメンバーも、2の面々も、不可思議なことに同じ行動をとっていた。神頼みだ。宇宙の彼方で、はやぶさの消息がわからなくなったとき、初代チームは揃って「呼ばわり山」と通称される神社にお参りに行った。昔から、参拝すると行方不明者が戻ってくると言い伝えられている神社だという。2の科学者たちもこれに倣った。

世界屈指の科学者たちが、神様を頼る。およそ科学的とは思えない。でも、それが人間なのではないか。

人間と社会を深く理解するためには、いわゆる論理だけでは無理である。あるいは、論理を解するためには、その論理が展開される場なり枠組みを読み解かないとダメ、と言えるかもしれない。人知の極みを尽くしても解決できないとき、人間は既存の場や枠組みを超えた存在に頼る。

こんな人間社会では、効果的な相互のコミュニケーションの具が必要になる。人間は、身振り手振りや表情だけではなく、より複雑、広範囲で深みのある意思疎通手段をもっている。コトバだ。コミュニケーションには法則性が不可欠である。そうでなければ他人や社会に通用しない。よってコトバには原則的な文法があり、語彙に意味があり、全体として論理的である。

ビジネス文書は論旨明解でつじつまが合わなければ失格であり、公文書はさらにそうである。無味乾燥とか「霞が関文学」とか揶揄されようが、正確無比な論理性が不可欠になる。

だが、コトバを真に活用し理解するためには、もうひとつ決定的な条件がある。そのコトバが発せられる場と四囲の状況を総合的に把握しなければならない点、論理性だけではなく五感を総動員した受容能力が大切になる点である。学者作家であり多言語を操って日本通でもあるロジャー・パルバースは、あるコトバの正しい意味をとらえるためには「この文脈(状況)では、この言葉はどういう意味として使われているのか」を把握しなければならないという(『驚くべき日本語』集英社文庫)。
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文=川村雄介

この記事は 「Forbes JAPAN No.096 2022年8月号(2022/6/24発売)」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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