前田氏は言う。
「成生と23年一緒にやってくる間、ありとあらゆる魚を試しました。最初は鳴かず飛ばずで、県外のうにや松葉蟹など高級素材も使いました。私が客として同席したある日、松葉蟹を揚げて出したのですが、隣の客が小声で『昨日も食べたね』と言うのが聞こえてしまったんです。それで、気づきましたね。原点に戻って、駿河湾の魚にこだわり続けようということを」
以来、新しい素材が入ったり、新しい調理法を試すときは、夜、客が引けてから、「夜な夜な会」と称して、料理人とサシで食べ、評価、指導するのだそうだ。
前田氏はこうして深く飲食店に食い込んでいるだけではない。「漁師の世界にも体を半分つっこんでいる」という通り、高齢の漁師の荷揚げを手伝ったり、休日に網の修理を手伝ったりするのも日常茶飯だ。
志村氏は、「あの人は、漁師さんが命がけで獲ったものを、ちゃんと競って、しかるべき値段で売ってくれる。だから、驚くほど信頼が厚いんです。環境問題にしてもそう。前田さんがちゃんとやろうというと、皆それに従います。今、大きな問題になっているのは漁期のこと。温暖化で気温も水温も全然変わっているのに、漁期は40年前に決まったまま。これでは産卵期の魚を獲りかねません。そのあたりも前田さんは改革に乗り出しています」と言う。
前田氏に、枯渇する海洋資源の現状を聞くと、山や川も含めた、腰を据えた対策の必要性が語られた。
「まず乱獲、そして産卵場所がなくなったこと。また、地球の温暖化、高齢化と業績の不振による漁師の激減などがその理由です。その状況を改善するためにも私は、山や川、ダムを見に行きます。海が豊かになるためには、何より、川から下りてくるミネラルが重要ですから。近年は行政とも一緒にこの問題に取り組むようになりました。
山に木を植えると同時に、産卵場所を増やすために、海藻の生育を改善したり、山の木を海に植えることなども行っています。例えば、テトラポットを埋めるだけで魚は回遊性が変わり、生態系が変わってしまうんです。それほど、自然はデリケートなもの。
また、豪雨は降るけれど、コンスタントな雨の期間が短くなったという最近の気候変動で、川の水圧が弱くなり、プランクトンの流れが変わってしまうという現象もおきています。それを自然にまかせていると戻ってこないので、人工的に人間が戻してやる必要がでてきています。そうしたことを行政と、数年のスパンで進めています」
その一方、前田氏が力を入れてきたことは、魚の付加価値を上げるということだ。「漁師の針に魚が食ったときから料理が始まっている」というのが前田氏の持論。そこで、数年ほど前から、漁師仲間何人かに、獲ってくる魚の精度を上げてほしいと頼んだそうだ。
当然のことながら、神経締めなどの基本の処理はほどこしている。さらに何を? と聞けば、「リールを巻くスピードで水圧のかかり方が変わるというほど、魚は扱い方で状態が変わるもの。だから、精度を上げるための方法はまだいくらでもある」という。
ところが、その提案に応じてくれたのは、一人の漁師だけだったそう。約束通り、1~2割高く買った。そして精度が上がるたびに高く買った。そうすることで、成生などの飲食店に納品する魚の精度は上がり、同時に漁師の価値も上がり、生活も潤っていった。