開発責任者で後に「ファミコンの父」と呼ばれる上村雅之がテレビゲームの開発を言いわたされたのは、携帯型液晶ゲーム機のゲーム&ウオッチが発売(1980年)された出た翌年のことでした。ゲーム&ウオッチが好調だからこそ、「ゲーム&ウオッチの先が見えた」として次が求められたのです。
上村に課されたのは、「ソフト内蔵式ではなくカセット方式であること」「3年間は競争相手が出ないような機械をつくること」「シャープと組まないこと」でした。
当時シャープはゲーム&ウオッチを生産していたため、ゲーム&ウオッチの生産ラインを止めるようなことになってはいけないという配慮がなされたためです。シャープ出身の上村にとって、これはかなりの打撃でした。協力を求めて主要な電子メーカーをひと通りあたったもののすべてNOと言われて困っていたときに、偶然リコーから電話がかかってきたのだとか。
当時のリコーは、最新設備がある半導体工場の稼働率が上がらず、工場の使い道を探していたのです。そこで工場を訪ねると、以前に任天堂の「カラーテレビゲーム6」などの開発で協力してくれた別会社のチームが、なんとチーム丸ごと転職してリコーにいるということがわかりました。
そのチームに「こんな回路をつくることができるか」ではなく「ドンキーコングができるか」と言ったことが大正解だったと、後に上村は語っています。当時アーケードで人気だったドンキーコングを家庭用のテレビゲームで再現するという具体的な目標を示せたうえに、リコーの技術者たちに「自分たちが頑張ればドンキーコングを家に持って帰れるようになる」というモチベーションが生まれたからです。
こうした幸運な巡りあわせが、社会現象にもなったファミコンという大ヒット作を生み出しました。
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