僕が「カネと技術と人間」をテーマにして小説を書き始めた理由

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僕は小説家になる前は、映画業界で働いていた。なので、平均的な日本人よりも映画を観てきたと思う。小説も映画もストーリーを語る表現メディアである。映画のストーリーをずっと考え続けてきた僕が、小説を書くようになった経緯を述べてみたい。
 
前衛的で実験的な作品では、ストーリーを解体したり、ストーリーにリミッターをかけたりするような手法を取ることもあるけれど、映画は大衆娯楽として発展してきた歴史が長いので、ストーリーのドライブ感はかなり強い。

特に娯楽映画はストーリーが作品の商業性に寄与する比重が大きい。なのでハリウッドはストーリーの研究に非常に熱心である。実際にストーリーをシナリオという形に仕上げるライターのほかに、ストーリーを分析してどこに問題点があり、どのように改善するべきかを指摘する専門家(シナリオドクター、ストーリーアナリスト)も職業として成立している。

「丹下左膳」が果たした役割


当初、映画がまだめずらしかった時代は、映画はあくまでも「動く写真」であり、ストーリーはあくまで付け足しだった。なので当初のストーリーはシンプルでたわいなく、例えば日本映画黎明期の時代劇では、立派な殿様の忠実なしもべである家来が、跳んだり跳ねたりドロンと消えたりして活躍し、最後は殿様に「でかした」と褒められるようなものが多かった。

しかし時代が下ると、丹下左膳のような複雑な内面を持ったキャラクターが現れて、封建的な主従関係に対するアンチテーゼを表現しはじめる。これは映画が近代文学へと接近することによって可能になった。著者の林不忘は「丹下左膳」を書く前、アメリカ大陸を放浪するヒッピーで、なおかつ文学青年だったのだ。

またフランスでは、1959年にヌーヴェル・ヴァーグという新しい映画表現の波が起こった。これについては様々な論じ方があると思うが、大きくいうと2つの特徴がある。1. 映画とは何かと問いながら映画を撮る。2. 映画を極めて個人的な表現に近づける。

この動きはほぼ10年後に、ベトナム戦争反対運動やウーマンリブの勃興、黒人の公民権運動で揺れるアメリカに波及し、若い映画人たちが「夢の工場」と呼ばれてきたハリウッドを揺さぶり出す。

フレッド・アステアがタップダンスを披露するお行儀のいいエンターテインメント(「雨に唄えば」など)ではなく、若い世代が自分たちの鬱屈や性や暴力を描き出した。60年代後半から70年代後半までのこうしたアメリカ映画の一群は日本では「アメリカン・ニューシネマ(New Hollywood)」と呼ばれる。

アメリカン・ニューシネマの作品の多くが表現するのは、「自由」「ここではないどこか」「さすらいへの憧れ」などだ。そして、どの表現にもこびりついているのが、体制に対するアンチの感覚である。これらの作品には、体制が個人を抑圧しているという「透かし絵」があった。それは、資本主義を乗り越えて次のステージを目指そうとするマルクス主義や、これに影響を受けた学生運動とも呼吸が合っていた。
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文=榎本憲男

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