僕が「カネと技術と人間」をテーマにして小説を書き始めた理由

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「愛」が勝利する薄ら寒い現実


しかし、現在においては「体制」という言葉は非常に理解しにくい。さて、体制とはなんだろうか。この問いに答えるために、現代社会を回している原動力は何かを考えてみたい。現代社会を駆動しているもの、それは大きく資本主義と科学である。批判を承知で噛み砕いて言えば、「金(カネ)と技術」が人間の欲望を喚起させ、世の中を回しているのだ。

カネと技術で回っている現代社会は、アメリカン・ニューシネマの表現に疑問を突きつける。ニューシネマの主人公たちは体制からの抑圧から逃れるために自由を欲した。しかし、彼らが欲しがったものとはまた別種の、しかし紛れもない自由(経済的自由)が格差を拡大して、抑圧的な構造を生みだしていることが明らかになりつつある。自由とはいったいなんなのだろうか?

もちろん、世の中はカネと技術だという剥き出しの事実は、薄ら寒い。そこで、これに対するカウンターパートとして拮抗していたマルクス主義が大きく後退したいま、助っ人として引っ張り出されるのがヒューマニズムであり、愛である。

しかし、ヒューマニズムも愛もその基盤は非常に危うい。危ういのだけれど、無理矢理これを称揚する役割を、大衆芸術や大衆娯楽が担ってきた。映画では、科学データよりも人間の感情が勝利し、カネよりも愛が選択される。たとえ現実がどうであろうとも。

映画において、このようなヒューマニズムと愛が勝利する基本路線はこの先もずっと続くだろう。ただ、これは薄ら寒い現実に直面する我々を癒やす「流行歌」のようなものだ。もちろんその意義は大きい。しかし、心を奪われ過ぎると、この社会に生きる人間の生の意味が捉えられなくなる、と僕は考える。

次第に僕は、映画という表現メディアに不満を覚えるようになっていった。特に「アートフィルム」と呼ばれる高級な映画の多くが、現代社会や世界と自分の関係を捉えずに、個に内向してしか表現をなしていない、そして批評がそういう作品をやたらと持ち上げることに大きな違和感を感じていた。

個人の感受性を大事にするのはいい。けれど、もっとカネと技術との関係で人間を捉える表現が出てきてしかるべきではないか。そんな思いが蓄積し、沸点に達したときに、僕は小説を書こうと決心した。自分に書けるかどうかはわからないが、書いてやろうと思った。幸い、映画を通じてストーリーについてはかなり執拗に研究したりしていたので、面白いお話をつくる自信はあった。

そして、僕は書き始めた。まさしくカネと技術そして人間という、小説の初心者にとっては大きすぎるテーマを思い存分ぶちまけるようにして、「エアー2.0」という作品を書いた。この執筆を機に、僕は本格的に小説を書き始め、幸いコンスタントに発表できるようになった。



しかし、僕がいったん映画に見切りをつけたその後で、映画にも新たな動きが出てきている。ある日、なんの気なしに観た「マネー・ショート 華麗なる大逆転」(アダム・マッケイ監督、 チャールズ・ランドルフ&アダム・マッケイ脚本、マイケル・ルイス原作)に僕は興奮した。次回はこの金融資本主義と人間をテーマにしたブラックコメディの斬新さについて書いてみたい。

文=榎本憲男

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