ではなぜ、報徳仕法は大きな支持を得たのか?
もともと尊徳は農政改革に取り組んだ徹底した実践家だった。幼少期に家族が水害被害を受け10代で両親が亡くなるという苦難を経験した。しかし、当時の大洪水で使えなくなった土地に、捨てられていた稲の苗を拾い集めて栽培し、利益を積み重ねていった。その手腕は近隣にも知れ渡り、飢饉で荒廃した地域の農村復興を任せられるようになる。
荒地の力を使って復興計画を立てた尊徳だが、彼が常に胸に抱いていたのは仁徳を施す心だった。彼は藩主への報告書で次のように述べた。「荒地は荒地自身のもつ資力によって開発されなければならず、貧困は自力で立ち直らせなくてはなりません」。再建計画に反抗したり怠けたりする者に対して、尊徳は自ら彼らのあばら屋の立て替えをして働いた。彼が自ら材木を運び、あばら屋を立て直していると、次々と村の人が集まり、彼を手伝った。
こうした精神は、反発していた者を深く自省させ、さらに尊徳に共感する村の人々を増やしていった。幕藩体制が崩壊した江戸末期に、尊徳は指導者として農村600カ所以上の復興を手掛けたと言われている。
その後、尊徳自身は幕末に生涯を閉じているが、その門下生や教えに共鳴した組織により、全国に「報徳仕法」は広められる。尊徳の勤勉さや努力だけではなく、最後まで利他の精神で働いた彼の姿は人々の記憶に残ったのであろう。時代が明治に移り、日本が開国するとともに新しい社会をつくる中で、多くの経済人に影響を与えた。こうして戦後に全国の学校に二宮金次郎(少年期の尊徳)の銅像が設置された。薪木を背負って本を読む勤勉な金次郎の銅像だ。
神奈川県小田原市には、尊徳を祭る報徳二宮神社がある。そこにある尊徳像には、彼の言葉とされている「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である」が掲げられているという。経済と道徳は切っても切れない関係だということだ。
このように尊徳の「報徳仕法」は、かつて開国したばかりの日本の土台ともなるような思想をつくり、国や地域経済の発展に影響を与えていった。つまり、トヨタの過去最高益は、日本が近代に向かうときの「思想」を佐吉の時代から組織づくりで活かし続けているのだ。
トヨタ「家元組織」革命 世界が学ぶ永続企業の「思想・技・所作」
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