栗俣:ほかのラブコメ作品では、元カレや元カノの存在は描きません。ところが『うる星やつら』では、ラムの元カレも、諸星あたるの元カノも出てくる。諸星あたるの本命は、もともと三宅しのぶでした。3巻の「君まてども…」(第9話)あたりで初めてラムを意識し、そこからどんどん好きになっていきます。
最後の巻では、初めてラムとあたるの本気のケンカを描いています。1巻から33巻までは、あのケンカを描くためのプロローグだったのではないかと。これは歴史そのものです。
深井:歴史ってリアルじゃないですか。高橋留美子さんが描いているのは全部フィクションなのに、リアルなのです。宇宙船や鬼や宇宙人が出てくるSF要素がありながら、何よりもリアルな感覚がある。人間の特性がわかりやすく出ているから、コミカルでありながらリアルなんだと思います。
リアルな僕たちは、自分の属性と欲求に疑いをかける瞬間がたくさんあります。自分の欲求にしたがって生きているのに、自分でその欲求を疑ったり、否定したりしてしまう。ところが『うる星やつら』に出てくるキャラ──例えばラムは、あたるを好きであることを疑ったりしないし、チェリーは自分が食いしん坊であることを疑ったりしません。その葛藤は、彼らにはない。そこがすごく気持ちいい。
栗俣:面堂終太郎(あたるのクラスメイト)なんて、そこの葛藤があったらムカつくヤツでしかない。
深井:そうですよね。ナルシシズムへの葛藤もない。彼らのなかで、ナルシシズムも完全に自己肯定されている。誰かが正しいのではなく、それぞれの特性をもって生きています。
実際は、そういう人間の特性を愛するのは難しいことです。嫌なことをされたら、こちらは感情をもつ個体だから、反発として現れるわけです。
『うる星やつら』から学んだのは、人間一つひとつの特性をかわいいと思うことです。あの漫画に出てくるキャラは皆、かわいく描かれている。
かわいく感じるというのは、純然たる愛情のかたちだと思います。相手がおじさんだったとしても、その特性をかわいく感じられるのはすごいことです。「人をそういうふうに見られたらいいな」という憧憬の気持ちが、いまの僕に影響を与えています。
高橋留美子さんの作品では、キャラ同士が人格否定をしません。相互に存在を承認している。チェリーが食いしん坊ゆえに起こす挙動に対して、反応はするけれど、彼の人格そのものは誰も否定しない。僕も、人や世の中を、そんなふうに見ていきたいと思っています。
栗俣:確かに、ラムとしのぶは恋敵なのに、お互いの人格を否定するシーンはないですね。
深井:「全員が存在していていい」という世界が、『うる星やつら』にはあります。あれこそ理想的な社会だと思います。
尖ったやつらがたくさんいるけれど、一種の調和がなされています。どついたり、絶望したり、楽しんだりしながら、決して相手の存在を否定しない。実は、相手の存在をちゃんと認めているのです。「お前はこうあるべきだ」というようなことを誰も言いません。すごく気持ちいい世界です。
栗俣:それで言うと、面堂終太郎とあたるの関係もおもしろい。
深井:ケンカしているのに、相手の存在は否定しませんよね。コミカルにぶっ潰そうとするシーンは出てくるけれど、面堂が面堂であることにムカつきはしても「面堂はここが駄目だ。お前はこうあるべきだ」とは決して言わない。「これが正しい」「これが美しいのだ」とは言わないんです。
『ONE PIECE』はそれを言うけれど、『うる星やつら』では絶対に言わない。実はすごいダイバーシティ社会なんですよ。『うる星やつら』も『めぞん一刻』も、超ダイバーシティが実現している。
栗俣:目指すべき世界観があそこにあるんですね!
深井:相手にイデオロギーを押しつけず、異なる他者の存在を肯定して生きる。究極の理想的なダイバーシティ社会を、この漫画は実現しているのです。あのダイバーシティが、僕はめちゃくちゃ好きなんです。自分もあそこにいたら、すごく気持ちいいと思う。あの社会と世界観が心地いいんですよ。
栗俣:ご自身の著書(『世界史を俯瞰して、思い込みから自分を解放する 歴史思考』)で深井さんが提唱する「歴史思考」に基づくと、『うる星やつら』はどういう作品ですか?