宇沢が考える教育の本質は、子どもたちの内的、innate(生まれつき備わった)な能力を引き出すこととしていました。それぞれに得意なものがあり、それを伸ばしていくことを大切としていたのです。
その能力は人に「伝える」ことがかなり重要なのではないかと私は考えています。人がそれぞれ経験したことは、個人のもので、それを完全に共有することはできません。
しかし、人には共感するという能力があり、その力で伝えられたことを想像することは可能です。人に伝えるかということに人々がいかに腐心していたか、2万年以上前に描かれたラスコーの洞窟の鮮やかな壁画、打楽器が多くの文明に共通して存在することなどから感じることができます。
リカレント教育においても内的な能力を広げていくことが大きな課題です。就労に関連する学びの場ととらえられることもありますが、これだけ多様な、変化の大きい時代においては、何が就労の役に立つかというよりは、個人の興味、innateな能力を引き出すもの、生涯教育に近いものと考えたほうが自然ではないでしょうか。
自身の枠組みを再検証する
父はリベラル・アーツとしての大学を、「こまかな専門分野の枠組みにとらわれないで、また政治、宗教の束縛から自由な立場に立って、あくまでも真理を追究し、一人ひとりの学生の全人格的完成を可能にすることを目的とした大学」であると言っています。大学という場に限らず、人生100年時代ですから、学生でなくても享受できることが大切です。
それを担っているデンマークのフォルケホイスコーレのような、社会人となっても、個人が興味をもっていることを自由に追究する場はこれからますます重要になると感じています。
経済学という学問は前提条件を設定し、それに基づいて理論を展開していきます。自身がつくった枠組みを検証していくというプロセスは非常に重要です。父は、その前提条件がなるべく実社会に即すように決めることが重要であるとしていました。前提条件は「枠」とも言えます。
枠について、能楽師であり言語学者でもある安田登さんが孔子の言葉の面白い分析をされています。孔子の時代には実は心という漢字がなく、『四十にして惑わず』という言葉は実は不或、枠を作らないということを意味していたのではないかという解釈です。
これは腑に落ちる方も多いのではないでしょうか。さまざまな経験を積み、それまでのパターン、枠を応用することで、いろいろな新しい事象に対応できるようになっていきます。しかし、40歳にしていままで構築した枠を越えることが重要なこととなる。いままでと違う価値観に身を置いてみることが、この枠組みを越える手助けになることは間違いありません。
宇沢からのメッセージをいま考える
父がよくしていた話から教育文脈を考えてみたいと思います。
1.「原典にあたれ」。東京府立第一高等学校は、現在の東京大学教養学部です。寮生活を送りながら学問のみならず、人生の師とも言える教師とともに学ぶ仲間たちとマルクスの『資本論』などの原典をひもといていました。
私自身、内科医として、新型コロナ感染症の対応をしていくうえで、ネットで拡散される情報の大元にアクセスし、そこから考えていくことの重要性を身にしみて感じました。必ず原典を確認することは、現代社会においてますます重要性を増しているのではないでしょうか。