もとより、この映画は単なる娯楽作品であるが、現代の最先端生命科学は、この「超長寿命」を現実的に追求しており、その急速な進歩は、数十年の間に、寿命を飛躍的に延ばす可能性を示唆している。
しかし、仮に生命科学や医学が人間の寿命を無限に延ばしたとしても、それが「不死」の実現を意味するわけではない。なぜなら、人間が命を失うのは、病気や老化だけではないからである。人生においては、交通事故や火災など、人間の肉体そのものを破壊し、消滅させてしまう出来事がある。
もし、そうした出来事をも超え、人間の「不死」を実現しようとするならば、未来学者のレイ・カーツワイルが『ポストヒューマン誕生』で予見したように、人間の頭脳の内容をすべてコンピュータに移植し、保存しておく技術の開発を待つしかないが、筆者は、そうした技術の可能性には懐疑的である。
この「不死への願望」は、人類始まって以来の「永遠の願望」でもあるが、筆者は、そもそも「不死」が実現した社会が、本当に幸せな社会であるかについても、疑問を抱いている。
かつて、漫画家の手塚治虫が、その代表作『火の鳥』において、主人公が「永遠の命」を与えられ、どれほどの悲惨と悲劇を経験しても死ねないことの苦悩から、最後には「殺してくれ!」と叫ぶシーンを描いているが、これは、手塚治虫らしい深い洞察であろう。
実際、人類の思想を顧みるならば、「死」というものは、必ずしも「恐怖」や「絶望」として受け止められているわけではない。「死」を「安らぎ」や「救い」と考える思想も、明確に存在してきた。
筆者は、若き日に、原子力工学の研究者として、唯物論的な思想を抱いて人生を歩んできた人間であるが、それゆえ、「死」とは「無に帰する」ことであり、それは、ときに、人間にとって、「生」の苦悩や苦痛、「エゴ」の葛藤や煩悶から解放される「救い」にもなると考えてきた。
しかし、一方、世の中には、「死後の世界」を想定する思想も、数多く存在する。
例えば、リドリー・スコット監督の名作映画『グラディエーター』では、主人公の死に際して、仲間は“See you again.”と語り、映画『Xミッション』では、力尽きて崖から転落する寸前、仲間に対して“See you soon.”と語る人物が描かれている。
このように、「死後の世界」を想定し、その世界で再び会えるという物語は、ときに、愛する人を失ったとき、我々の心を深く癒してくれる。