もちろん、自分をブラッシュアップしていけるような若い世代ならば、経験そのものもアップデートしていけるだろう。しかし、45歳を過ぎて新たなデジタルツールの使い方を習得していくには、普通以上の努力が必要になる。スマホ画面の文字を見るだけで疲れはじめる45歳以上にそれを望むのは酷というものだ。
そう考えると、「自然定年」はスポーツ選手のそれに近い。
サッカー選手でも、野球選手でも、百戦錬磨で優勝経験や国際大会での活躍を味わってきたような選手は、経験を活かしたいぶし銀のプレイができるものだ。大舞台でも緊張しない術を知っているし、相手チームへの対処法なども若い選手よりは長けている。だから、大舞台になると「彼の経験を活かしたい」「若い選手に伝えてほしい」と選抜メンバーに選ばれることがままある。
だからといって、もう走れなくなったサッカー選手や、投げることもままならない選手をグラウンドに立たせることはあり得ない。経験は肉体的な限界を凌駕しない。ベテランの経験だけを活かすために、若い選手の席を譲るわけにはいかないのだ。それはコーチや監督の役割で、少数いれば十分だ。
第3の定年「実質定年」
いよいよ本題に入る。
第1の定年「形式定年」は、政府と企業が労働者をとにかく使い切るための制度だった。しかし、それは右肩上がりの高度経済成長の時代に組み上げられた特別なモデルでしかなかった。
少子高齢化という抗えない現実。30年以上にもわたる低成長時代。これがトリガーとなって、企業は年功序列型賃金を維持して、労働者を縛り付けるほどの余裕がなくなった。政府は退職したあとの生活を手助けする潤沢な公的年金を設定できなくなった。そして苦し紛れのなかで「70歳まで定年を延ばす」と号令を発した。
天下の愚策だ。
次章で詳しく述べるが、それは企業にとって負担でしかなく、むしろシニア社員を早めに追い出す誘因になりそうだ。簡単に言えば、「形式定年」は形だけの定年であり、真剣にこれに従っていたら働く者が不幸になるのは目に見えている。
その一方で、第2の定年「自然定年」は、無慈悲に訪れる。人生100年時代といわれ、健康寿命も多少延びたが、やはり45歳くらいを境に、人間は体力と知力、何よりも気力が落ちる。頭も固くなり、新しい知見も得られなくなる。
人間としての成長曲線が下降線になったのだから、今度は階段を下っていくことを覚悟しなくてはならない。それこそが自然な定年であり、多少の時差はあっても人間が誰しも平等に受け入れなければならない定年だ。
年金制度がガタついて、長く働く必要性が出てきたのに、企業はなるべく早くシニアを追い出したい。しかし、自分の体は、若い世代に比べて仕事ができるとは当然いえない状況だ。人生50年のときは55歳で迎える「形式定年」と「自然定年」が噛み合ってフィットしたが、今はミスマッチが甚だしい状態というわけだ。
形骸化する「形式定年」と、抗えない「自然定年」にはさまれたシニア層は、身の振り方をどうすればいいのだろうか?
私は第3の定年を提案したい。「実質定年」──。それは、自分で自分の定年を新たに再設定する、自律的な生き方のことだ。
郡山史郎(こおりやましろう)◎伊藤忠商事の後、ソニー取締役、常務取締役、ソニーPCL社長を経て2000年同社会長、02年ソニー顧問を歴任。CEAFOM代表取締役社長。ベストセラーとなった『定年前後の「やってはいけない」』)などがある。
『定年格差 70歳でも自分を活かせる人は何をやっているか』(郡山史郎著、2021年9月、青春出版社刊)