2012年、パリ8区の閑静な地に物件をみつけ、日本から資材をすべてを運び、職人数人がかりで数寄屋の店内をくみ上げ、什器もすべて日本から運んだ。
スタッフは、パリ店で働きたい人間を募り、整えた。足かけ2年、2013年の秋「OKUDAパリ」はオープンにこぎつけた。以来、奥田氏は、毎月4日間パリに滞在し、東京に戻るという、2拠点生活を続けた。
さて、素材である。「私の考える“世界食”の定義は、その土地にある素材で作れる料理でなければならないということです。フレンチのフォアグラや、イタリアンのパルミジャーノ・レッジャーノなどの例外はありますが、基本はその土地の素材を使用して作れなければ、世界食とはいえません」。奥田氏の決意は固かった。
ところが、ランジス(パリ)の市場に初めて連れて行かれたときの衝撃は想像を超えるものだったという。日本の基準で考えれば、2割の魚がどうにかこうにか使えるか、というレベル。さすがにこれでやっていくのは難しいと思わざるをえなかった。
同じ頃、当時、三ツ星に近いと言われた、ノワールム-ティエ(フランスの西岸、石巻や気仙沼のような地域)にある「ラ・マリーン」のアレクサンドル・クリヨンシェフが、魚のことをムッシュ奥田に教わりたいと、はるばる訪ねてきてくれた。それで思わず聞いた。
「目の前が海のあなたの店なら、生きた魚は手に入るのですか?」と。答えは「Oui!」。それなら、ノワールムーティエまで行くから、生きた魚を漁師さんにとりおいてもらってほしいと、と懇願した。
早速6時間かけて、ノワールムーティエを訪れた。ところが、残念ながら、海がしけて魚は捕れず。代わりに、築地で撮影した魚の締め方のビデオなどを見せて、「日本では生きている魚が一番の価値で、そこから締めることによって料理が始まる。生きたまま締めて血を抜くと、鮮度が保たれ、美味しくなるんだよ」と丁寧に説明をした。
2回目には、念願の生きたスズキが手に入り、活締めにしたのち、お造りにして塩をふって食べさせた。アレクサンドルシェフが喜んだのはもちろん、漁師も、「これならワインがなくても食べられるんだな」と驚いてくれた。
自ら“魚屋”も開く
よし、ここから魚を運ぼうと意気込んだが、フランスには活魚車がない。活魚車とは中が水槽になっていて、酸素が供給される仕様になった、日本ではどこの漁港から魚を運ぶにも使用しいている車だ。次々と現れる障害にひるむどころか、奥田氏の心はますます燃え盛る。日本の活魚車では車検を通らないから、水槽や酸素ポンプだけを日本から運び、フランスのトラックを改造して、なんとか、車検を通るものを造り上げた。
ところが、今度は乗り手がいない。ドライバーが皆、こんな車を運転して捕まったら困ると尻込みを始める。いやいや車検は通ってるんだからとなだめすかして、なんとかノワールムーティエから魚を運んでもらった。