当初、その友人の姿に敬意を抱いていたが、彼と何度か会話をしていると、残念な気分に包まれた。
それは、彼に読んだ本の感想を聞いても、「あの本にはこう書かれていた」「あの著者の主張はこうだった」といった要約的なことや、短い印象コメントしか述べないからであった。彼のその膨大な記憶力には敬服したが、どれほど多くの本を読んでも、その読書から「自身の思想」を紡ぎ出すことのない彼の姿には、いささか物足りなさを感じた。
なぜなら、著者の主張をどれほど正確に要約できても、それだけでは、著者の思想を超えることはできないからである。そして、今日では、近い将来、そうした要約能力は、人工知能の方が、圧倒的に優れた力を発揮するようになるだろう。
では、読書を通じて「自身の思想」を紡ぎ出すためには、どのような読書法が求められるのか。
もとより、ここで「自身の思想」というのは、過去に語られた様々な思想を学んで比較し、その中から、自分が賛同する思想を語ることではない。
「自身の思想」を持つとは、一つのテーマに対して、様々な知識や智恵が結びついた、自分らしい個性的な「知の生態系」を生み出すことである。
では、いかにすれば、様々な知識や智恵が集まり、個性的に結びついていくのか。
そのためには、「深い問い」を持つことである。
我々の心の中に「深い問い」があれば、それが強い磁石となって、自然に様々な知識や智恵が集まってくる。そして、一つの生態系を生み出していく。
ただし、そのとき大切なことが、二つある。
一つは、「専門の垣根」を超えることである。
例えば、「死とは何か」という深い問いを心に抱いたとする。そのとき、その「死」というものを、様々な専門分野の視点から見つめるということである。具体的には、それを「生物学的死」「医学的死」「人格的死」「社会的死」、さらには「人類の死(滅亡)」「宇宙の死(終焉)」といった視点から見つめることである。もし、そうした多様な視点から見つめ、思索を深めるならば、そこには必ず、個性的な「自身の思想」が生まれてくる。