もう一つは、「ジャンルの垣根」を超えることである。
すなわち、「死とは何か」について考えるとき、「専門書で語られた死」「文学で語られた死」「映画で語られた死」「漫画で語られた死」などを区別せず、重層的な視点で思索するということである。
例えば、多くの人々の看取りを行ったエリザベス・キューブラー・ロスの専門書、『死ぬ瞬間(On Death and Dying)』や『続・死ぬ瞬間(Death:The Final Stage of Growth)』を読むならば、「死」とは「成長の最後の段階」なのかとの驚きとともに、本当に死後の世界が存在するのかとの深い問いを抱くだろう。
また、吉川英治文学賞を受賞した伊藤桂一の小説『静かなノモンハン』を読むならば、「死ぬ」ということの冷厳な現実を教えられる。この小説は、戦地において銃で腹を撃たれて死ぬということが、どれほど凄まじい苦しみであるかを、淡々とした筆致で描いているからである。
そして、アカデミー作品賞を受賞した映画『カッコーの巣の上で』を観るならば、脳の手術、ロボトミーを施されるということが、たとえ「医学的死」は免れても「人格的死」を迎えることであり、その「死」こそが人間にとって本当の「死」ではないのかという問いを、我々に投げかけてくる。
さらに、手塚治虫の金字塔的漫画『火の鳥』を読むならば、「永遠の命」を与えられた主人公が、最後に「殺してくれ!」と叫ぶ姿に、「死」とは、実は「安らぎ」ではないのかとの思いを抱く。
こう述べてくると、現代の「教養主義」の問題が見えてくるだろう。
ただ、様々な分野の書物を数多く読み、該博な知識を身につけることが、教養ではない。
何よりも、自身の中に、容易に答えの得られない「深い問い」を抱くこと。それこそが、真の教養を身につけるための出発点であろう。
なぜなら、「知性」とは、「答えの無い問い」を問う力であり、問い続ける力だからである。
その「知性」に支えられたものこそ、真の教養に他ならない。
田坂広志◎東京大学卒業。工学博士。米国バテル記念研究所研究員、日本総合研究所取締役を経て、現在、多摩大学大学院名誉教授。世界経済フォーラム(ダボス会議)Global Agenda Council元メンバー。全国6500名の経営者やリーダーが集う田坂塾・塾長。著書は『運気を磨く』『直観を磨く』『知性を磨く』など90冊余。