ボブ・ディランのバックバンドからロックの革命児へ THE BANDの栄光と苦悩


栄光と苦悩の始まり


サイケの次を求めていたミュージシャンはこの奇跡に衝撃を受けた。前年にサイケデリック・ロックの頂点的傑作『サージェント・ペパーズ』を発表していたビートルズは『ゲット・バック』でロックンロールに回帰し、エリック・クラプトンはクリームを解散してやはりルーツ・サウンドにシフトしていった。

そしてヒッピー・ドリームの終焉を描いたアメリカン・ニューシネマ『イージー・ライダー』(1969)の劇中で、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』の収録曲『ザ・ウェイト』が用いられたことが、ザ・バンドの名声を決定づけた。


『The Weight』はデニス・ホッパー監督の映画『イージー・ライダー』内で用いられた。

すぐに全米ツアーに出るはずだったザ・バンドだったが、ベースのダンコの自動車事故によってセカンドアルバムの録音を先行する。このアルバム『ザ・バンド』こそが彼らの最高傑作だろう。正式ライブデビューを果たしたのは1969年で、その後ウッドストック・フェスティバルへの出演を含む長期のツアー生活に入った。

ここからロバートソンの苦悩がはじまる。彼以外のメンバーがアルコールやヘロインにハマり、クリエイティビティーを発揮しなくなったのだ。ドラマーのヘルムもリーダーの座を放棄し、デビューアルバムではロバートソンと並んでソングライティングの要だったマニュエルは曲を作らなくなった。ホーンセクションを取り入れた71年作『カフーツ』や全曲オールディーズのカバーで構成された73年作『ムーンドッグ・マチネー』はこうしたピンチを何とか打開しようと作られたアルバムだった。一方でライブバンドとしては絶好調で、1974年のボブ・ディランとのジョイント・ツアーは大成功に終わった。


1966年 Bob Dylanのバックで演奏する様子。

彼らがレコーディング・アーティストとしてのスランプを抜け出したのは1975年作『南十字星』だった。以前より洗練された演奏が印象的な同作は、全曲がロバートソンひとりの手によるものだった。この路線を進みたかったのだろう、ロバートソンはライブ活動停止を提案する。ヘルムをはじめとする他のメンバーは反対したものの、ザ・バンドは1976年にサンフランシスコでラスト・コンサートを開催する。

ホーキンスとディランをはじめ、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、マディ・ウォーターズ、ドクター・ジョン、ヴァン・モリソン、リンゴ・スター、エリック・クラプトンといった彼らと親交深いミュージシャンがゲスト参加したライブは、マーティン・スコセッシの手により撮影され、劇場映画『ラスト・ワルツ』として公開。現在では古き良きロックの時代の最期を描いた傑作ドキュメンタリーとみなされている。

ザバンド
スコセッシ作品の音楽監督としても活動したギターのロビー・ロバートソン。10月公開の映画もマーティン・スコセッシとロン・ハワードが製作総指揮を務める。(Getty Images)

1977年にザ・バンドが正式解散すると、ロバートソンはそのままスコセッシ作品の音楽監督として活動。最新作『アイリッシュマン』にもクレジットされている。残されたメンバーは1983年にロバートソン抜きで再結成するが、86年にマニュエルが自死し、99年にはダンコも亡くなったことで活動停止。2012年にはロバートソンとは絶交状態になっていたヘルムも亡くなった。ハドソンは現在ウッドストックで暮らしている。

これだけ読むと、ロバートソンのひとり勝ちのように思えるが、実際は違う。彼がソロデビューしたのは1987年になってからで、これまでにリリースしたソロアルバムは5枚のみ。どれも力作ではあるものの、すっかり寡作になってしまった。

理由はシンプル。ロバートソンはザ・バンドの名曲群を自分で歌うためでなく、マニュアルやダンコ、ヘルムのヴォーカルを想定して作っていたのだ。つまりザ・バンドの解散と3人の死によって、彼は自分の「声」を永遠に失ってしまったのである。その悲しみは、映画を観ても強く伝わってくる。


解散ライブ『The Last Waltz』の様子。リンゴ・スターなども参加した。

連載:知っておきたいアメリカンポップカルチャー
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文=長谷川町蔵

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